触れてはいけない
「お願い!殺生丸さま・・・」
滑らかで上品な藺草の香りが立ち上る畳の上で、りんは改まって足を折り、座った。
その前には、明らかに不機嫌な大妖。
「・・・」
「すぐに帰るから!夕刻には帰るし、阿吽と一緒に行くし・・・」
むっつりと黙りこくった殺生丸は、達磨のように口を利かない。
そろそろりんの足もしびれてきた。
むずむずとする。
「殺生丸さま・・・お願い・・・かごめさまの村に行かせて・・・?」
しびれた足を半ば崩すようにして、大妖を見上げた。
りんにとっては、真に真摯な願いだ。
だが、殺生丸はその姿を見て目を逸らさざるを得ない。
着物の裾から見える細い足首さえ―――欲情する。
そんな己をやはり犬だなと笑うのだが。
一瞬、掴んで引きずり寄せたい衝動に駆られた。
「・・・殺生丸さま?」
まさか殺生丸が自分の足首を凝視しているとは思うまい。
一点を見つめたまま固まってしまった妖を、りんは不安げに見上げた。
―――あまりに猟奇的だ。
卑しい考えを振り払うように言い放った。
「好きにしろ」
途端にりんの顔に輝きが満ちる。
「ありがとう!殺生丸さま!!夕刻には帰るね!」
りんは勢いよく立ち上がった。
だが血の巡りが悪くしびれた足はりんの上半身についていかない。
りんはそのまま見本のように大きな音を立ててこけた。
俊敏な娘だ。
咄嗟に手を突いて、顔面から畳にたたきつけられることはなかったものの、膝を打ったらしい。
膝を抱えて呻いている。
そそっかしいところは幼い頃から変わらないらしい。
「いたぁー・・・」
年頃の娘にふさわしからぬ格好で四肢を投げ出し、迷わず着物をくるくると膝丈までめくった。
膝頭はうっすらと青く、痛々しげな細い足をますますか弱くした。
そのふくらはぎの曲線から、見えない太腿、さらには着物の奥に秘められた部分にまで一瞬のうちに思考が走る。
殺生丸は視線を引き剥がすように遠くを見たまま、りんの脇に腕を差し込んで立たせた。
「行けるか」
「うんっ!行ってきます!」
いためた右膝を不恰好に動かしながら、りんはかごめの村へ向かうべく、竜舎へと阿吽を探しに行った。
─────
今しがたりんが去った空虚を見つめて、殺生丸は重い息をついた。
当人に自覚がないというのは、どうにも耐えられない。
先ほどのような、そのまま組み敷いてしまいたい勢いに駆られることもある。
だが、ときおりそれはりんの意識の上のことなのでは、と勘繰ってしまう。
間違いなく、堕ちているのは己のほうだった。
──────────
「かごめさまー!」
澄んだ空から響いた高い声に、洗濯をつるしていたかごめはその手を止めて上空を見上げた。
「りんちゃん!」
阿吽は髪が翻る程度の風を立てて地へと降りる。
匂いに気づいたのか、家からは犬夜叉が出てきた。
「おお来たか、りん」
にこやかにりんを迎えてくれたこの夫婦に、りんは花のような笑みを向けた。
「お願いしたもの・・・よかった?」
「ばっちりよ~!」
よかった、と笑うりんはますます美しくなったと、かごめも犬夜叉も認めざるを得ない。
その原因も、あらかたわかる気がした。
幼いころは毛先が跳ねてあらぬ方向を向いていた漆黒の髪も、今は重さで真っ直ぐと地へと伸び、鏡のような瑞々しい艶を放っている。
細すぎた肩は女らしく丸みを帯び、頬を赤らめてはにかむ姿にかごめさえも赤らむ始末だ。
ただ、そんなりんを村の男がほうっておくはずもない。
りんの独特ともいえる雰囲気に惹かれる者も、少なくなかった。
だが、これまでりんに言い寄ったものは一人もいない。
それはりん自身が纏う空気のせいもあるだろうが、おそらくりんが従える妖怪たちの影響だろう。
村の無邪気な子供は阿吽を可愛がり、大人しく賢い阿吽は存外人気者だ。
帰りの遅いりんを急かすように迎えに来る邪見さえ、親しまれている。
だが、村の男共はそんなりんに近づきたい想いを抱くものの、何処か一線を引いたままでいた。
しかしその一線もいつか冒されるときがくる。
そんな愛らしい娘を絶大な力で庇護するものがいるとも知らずに。
「これはどう?大きくて殺生丸らしいと思うけど・・・」
「う~ん・・・もうすこし小さくないと使えないかなぁ・・・」
「おい、これは?」
「犬夜叉、あんたそれ雑草じゃない・・・」
三人の中心に行儀よく並べられた幾多の花々。
手にとってじっと見つめ、愛しい姿と照らし合わせる。
だがどれもぴんと来なかった。
「あ、そういえば村のはずれの川のほうは見てこなかったわ。
りんちゃん、探しに行く?」
「うん!」
「じゃぁあたしは楓様のところに薬草を取りに行かなきゃならないし」
「おれは弥勒に力仕事を頼まれてる」
「・・・から、りんちゃんひとりで行って来てくれる?あたしも済んだらいくから」
「はいっ」
村のはずれの川に行くまで、何人もの人に声をかけてもらった。
近頃は殺生丸の許しを得られずなかなか村に来られなかったが、村人たちはちゃんとりんを覚えていた。
礼儀正しく明るいりんに好印象を持ってしまえば、忘れることは少ない。
元気に手を振ってくる子どもたちに手を振り返し、川まで歩いた。
川べりには、季節にあったさまざまな草花が咲いている。
りんはそのひとつひとつをじっくりと眺め、思い通りのものを探した。
「あ、杜若・・・は大きすぎるよね・・・、これは小さすぎるし・・・赤、って感じじゃないしなぁ・・・」
いろんなことを呟きながら物色していると、りんの手先に暗い影が落ちた。
はっと顔を上げると、ひとりの男がいた。
かごめたちや村の女・子ども以外に面識のないりんは、咄嗟に肩をこわばらせたが、男がたたえていた爽やかな笑顔に肩の力が抜けた。
「あの・・・何?」
それでも不審げに尋ねたりんを見下ろして、男は困ったように笑った。
「別に怪しい奴じゃないよ。・・・りん、っていうんだろ」
この村の者らしい男は、りんの引き気味な態度をものともせず傍に腰掛けた。
「楓様やかごめ様のお知り合いで、妖怪と暮らしてる」
りんは素直にうなずいた。
「たまにこの村に来るじゃないか。いつも可愛い娘だと思って見てたんだけど、なかなか声をかける機会がなくてさ。だから今日は話せて嬉しいよ」
照れもせず真っ直ぐな言葉に慣れないりんは、思わず顔を赤らめてうつむいた。
(・・・りんのことをそんなふうに言ってくれる人、初めてだ・・・殺生丸さまは絶対そんなこと言わないし・・・)
その男は村男らしく日に焼けていて、健康的な肌は男の実直さや素朴さを表している。
りんは花々の物色を続けながら、その男との会話を不思議なほど楽しんだ。
「ところで、なんでりんはこんなところで花を探してるんだ?薬草ならここよりも・・・」
「あ、ううん。薬草を探してるんじゃないの。これは殺生丸さまに・・・」
「殺生丸さま?」
「うん!強くてね、綺麗でね、すごく優しいの!今日もこの村に行ってもいいって言ってくれて・・・」
「・・・一緒に暮らしている妖怪か?」
「そうだよ?」
男は思案するように手を顎にやった。
りんは男に殺生丸についてのお決まりの紹介をしながら、考えた。
どうして殺生丸さまはりんをこの村に来させたくないんだろう・・・
ふと手に温もりを感じて、はっとした。
りんの手には、男の無骨な手が重ねられていた。
思わず手を引こうとしたが、それは強い力によって許されなかった。
「・・・りん、本当に幸せか・・・?妖怪なんかと一緒にいて・・・」
眉を寄せてりんを見つめる熱い瞳に正直戸惑った。
だが同時に、少し怒りに似た感情を抱いた。
何人もの人に言われたその言葉。
自分で選んだこの道を間違いだと思ったことなど一度もないし、悔いたことさえない。
強くその手を振り払い立ち上がった。
「そんなことあなたに言われたくないっ。妖怪なんかなんて言わないでっ!」
そのままかごめたちの家へ帰ろうと一歩踏み出したとき、背中に体温を感じた。
男の息が首筋にかかって、抱きしめられているのだと気づいた。
「・・・悪い。でも、やっぱり人は人と生きるべきだと思う・・・俺は、りんと共に生きていきたいんだ」
全身を強張らせて男を拒絶するが、離れようとはしない。
「・・・っ離して・・・!」
「ずっと、想ってたんだ・・・お前が人の世に戻れば、俺がお前を幸せにできる・・・」
ますますこめられた力に、鳥肌が立った。
殺生丸以外の男に触れられることを、全身が拒否している。
再びもがこうと試みたとき、突風がりんの髪を巻き上げた。
驚いた男の手が緩み、りんがすかさず男の腕から抜け出すと、目の前には白銀の妖がその白い振袖をはためかせて立っている。
「殺生丸、さま・・・」
迎えに来てくれたのだろうか、と淡い喜びが胸をよぎったが、金の瞳に混じった冷たいものに気づいて、見られていたのだと悟った。
よくわからない体裁を気にする自分がいた。
妖は男には目もくれず背を向けた。
「帰るぞ」
そのまま足を踏み出した殺生丸を追って、りんも慌てて歩を進める。
背後から焦りの滲んだ声が二人の足を止めた。
「っ・・・ほ、本当にお前がりんを幸せにしてやれると思うのか・・・!?りんのことを考えるのなら人のもとへ返すべきではないのか・・・!?」
しぶとい男の呼びかけに閉口して、りんが振り返るよりも早く、殺生丸のいつもより低い声がりんを通り越して男へと放たれた。
「すべてはりんが決めたこと。たとえりんの幸がここにあるとしても、それを選ぶのはりんだ」
言い残した言葉を置き去りにして、殺生丸はりんを抱き上げ地を離れた。
りんの眼下には、下唇を噛みしめた男が小さくなってゆく。後ろから阿吽が着いてきていた。
妖を覗き見ると、その顔はいつもより剣呑を含んでいた。
それは自分のせいだと自惚れてもいいのだろうか。
腹の奥のほうになにかがゆっくりと沈んでいくような心地よさを感じた。
はっとして、自分が今手に何も持っていないことを思い出した。
これではここまで来た意味がない。
「せっ殺生丸さま!お願い、まだ用事が済んでないの・・・!かごめさまのところに行かせて・・・?」
「・・・何をしに」
「・・・お願い、すぐだから・・・」
りんの懇願に耐えられなかったのか、殺生丸は無言を守ったまま弟の家へと引き返した。
家の中で薬草を分けていたかごめは、突然りんが大妖を連れて帰ってきたことに目をむいた。
「殺生丸!!いったいどういう・・・」
「かごめさま、あの書の中のもの・・・もらっていってもいい?」
「え?うん、いいけど・・・あれでいいの?」
「うん、本当はこれが一番いいと思ってたんだけど少し大きいかなって思って・・・でもやっぱりこれにします!」
「そう、よかったわ。・・・もう少しいるでしょう?ゆっくりしていったら?お義兄さんも」
かごめの言葉に今まで無関心を装っていた殺生丸も嫌悪を丸出しにして、かごめを一睨みし、御簾を荒々しく巻き上げて外へと出た。
「・・・殺生丸さまが待ってくれてるから」
苦笑するりんに、かごめも笑みを返した。
「そう、たいへんね、りんちゃんも」
「じゃあ・・・ありがとうかごめさま。犬夜叉さまや弥勒さまたちにも・・・」
「うん、また遊びに来て」
りんは部屋の隅に置いてあった分厚い書を開いて、中から薄い何かを取り出し、それを大事に懐へと収めた。
りんが家を出ると、外から風を巻く音が響いた。
かごめは一息ついて、あ、と思いついた。
犬夜叉、帰りが遅いと思ってたら・・・殺生丸の匂いに気づいて逃げたな・・・
森深い屋敷へと着き、殺生丸はりんを降ろすとさっさと自室へと歩を進めてしまった。
「あ、殺生丸さま待って!」
怒っているのだろうか。でも、何故?
殺生丸は足を止めたものの、振り向かない。
りんはその前に回りこんだ。
懐から先ほどかごめにもらったものを取り出す。
「はいっ」
薄く乾いた紫の花が妖の目の前に突き出された。
「・・・はなしのぶ」
「うん、あのね、このあいだ殺生丸さまに御櫛をもらったでしょう?お返ししたいなって思ってたの」
水分を失って皺を持ったその花は、それでも枯れずにまっすぐと伸びていた。
「・・・返しなど」
「いらないって言われると思ったんだけど・・・殺生丸さまよく御本読んでるでしょ?しおりになるかなあって」
そう言って無邪気に笑う。
花を贈ればそれで満足なのか。
私は───足らない。
この蕾はいつ開くのだろう。
焦らして
焦らして
もう、待てない─────
白い腕がほくほくと満足げな顔をする少女へと伸びた。
今、一線を越える。
だだっと書き上げたので意味不明かもしれませんが・・・
前サイトでキリ番を踏んでいただいたゆき様に差し上げます。
あまりご希望に添えられてないのは重々承知です><
ごめんなさい・・・;;
ちなみに、小説の内容として使えませんでしたが・・・
ハナシノブの花言葉は「あなたを待っています」
りんちゃんと一線を越える日を待ちに待っていた殺生丸を想像してこの花を選びました。
花の姿からしても、なんとなく殺生丸を連想します。
まぁまったくの妄想ですが^^;
拍手御礼小説1
強すぎる日差しに負けまいと、それは凛と地面に根付いていた。
川面に弾かれた光は散らばり、その花弁を鮮やかに彩る。
指で軽くその葉を弾くと、弱弱しく花は震えた。
「その花、好きなの?」
はっとして肩を強張らせ、きつく振り返る。
「…誰」
殺生丸と同じ背丈ほどの少女がてんと立っていた。
「あなたこそ誰?」
殺生丸はすいと目を細めた。
黒く肩まで切りそろえられた髪が日の光で白く光っている。
漆黒の瞳が深く自分を見つめている。
「…ここは私の家だ。
何故答える必要がある」
剣のある言葉をもろともせず、少女は小さな八重歯を見せた。
「じゃあ私も言ーわないっ」
勝手に他邸に侵入しておいて、
と殺生丸が狭い眉間に皺を寄せると、少女は一層笑みを零した。
「ねぇ、向こうに大きな桃の木があったね。遊びに行こうよ」
屈託のない笑いが殺生丸にはどこか悔しかった。
「…あれは父上が重宝しているものだ」
「でもあなたのお父様があなたに木登りでも教えてやってくれって」
そう言って大きく笑う父の顔が容易に想像できる。
「ね?はやくっ」
少女は殺生丸の白い手首を掴むと、軽く駆け出した。
父母以外のものに触れられて、ぞっとした。
しかし振り払うこともできなかった。
少女は一番太そうな枝に手をかけると、ふわりと足をその枝に預けた。
「ね?簡単でしょ?あなたも…」
言われるまでもなく、殺生丸の体はあっという間に少女と同じ高さに来ていた。
少女は目を丸くし、細く息を吐いた。
「何だ、あなた飛べるの」
少女の挑発に乗った気がして悔しかったが、それが知れてしまうのも悔しくて、澄ましたふりをした。
そして気づけば殺生丸自身、意地になったかのように少女と競っては
高く高く登ってはおり、登ってはおりをして
また少女に引かれて広い庭で走り回った。
「あぁ、私も飛べたらいいのに」
「何故」
「気持ちいいでしょう」
「別に」
少女はむぅと頬を膨らませた。
「あなたって勿体ない生き方してるのね」
さすがの殺生丸もこれは気に障った。
「どこがだ」
「だって、世の中すごく素敵なのに全然分かってないんだもん」
「…ふん」
「黄色いお天道様も、やさしいそよ風も、すごく気持ちいいんだから」
殺生丸は少女の瞳を覗き込んだ。
あまりに澄んだそれに写る自分は
本当に勿体ないことをしているのかもしれないと思えた。
楽しみほど早く過ぎると知ったのも、この日かもしれない。
「…私そろそろ行かなきゃ」
「…」
「ありがとう、楽しかった」
「…」
「あの桃の花が咲いたらきっと綺麗だよ」
「…あ…」
「え?」
俯いたまま口を開いた殺生丸に、少女は顔を近づけた。
「…明日も来るか…?」
殺生丸の言葉に少女は少し驚いた風を見せたが
すぐに花開くような笑みに満ちた。
「…またね!」
大きく手を振って走り去り、少女は現れた時のようにすぐ消えた。
今この胸を満たすものがこんなにも心地良いことも知らなかった。
だから、会いたかった。
もう一度。
「…え…?」
「なんだ、殺、あの子に聞かんだのか?」
「…いえ」
「あの子の父はこの屋敷の造園師だ。
あの子は…姫紫の精。
一年草ゆえに、昨日生を終えた」
…死んだ?
莫迦な。
何故、
父上。
「…悲しいのか、殺生丸」
「…部屋に戻ります」
父の部屋から自室までの足取りは覚えていない。
少女はもういないのだという現実と、
またねと言ったあの笑顔だけが脳裏のこびりついていた。
必然の死を前にして、私は。
名前も、知らなかった。
あれは、この世に一年の生を受け
穢れぬまま死んでいくのか
ふと思い立って、あの庭園へと急いだ。
強く根付いていた薄紫だったそれは
ずいぶん冷たくなった秋風に吹かれて茶色く変色し
自らの重みに耐えきれずに頭(こうべ)を垂れていた。
しぼんだ花弁を一枚手に取り、光にかざした。
その色を確かめる前に、風が手からそれを奪い空を舞った。
生涯忘れぬだろう想いも持って行けと
願わずにはいられない。
瞬間、強い風が殺生丸の髪をはためかせた。
鈴のような声が聞こえた。
――――忘れないで
私を、忘れないで―――
「…残酷な…」
困ったような少女の笑い声が聞こえる気がした。
姫紫
別名、勿忘草――――
守り方
ほお、と珍しく暖かな息が邪見から漏れた。
今日もまた主においていかれた。
理由はひとつ。
この小娘がいるからである。
小唄を歌ったり花冠を作ったりと、忙しくどこかを動かしてばかりいる娘は、大人しく老僕と共に主の帰りを待ちわびていた。
いつもであれば、りんはすぐにちょろちょろと動き回り、邪見は季節を問わずいやな汗をかいて走り回らねばならない。
しかし今日のりんは格別静かで、故にこのような安堵の息が漏れたのである。
「邪見さま、ため息つくと幸せが逃げるんだよ」
「今のはため息ではないわ」
「でも今日も殺生丸さまにおいていかれちゃったね」
「うるさいっ!」
「ほら、邪見さまがため息つくから雲が出てきたよ」
「なんでもわしのせいにするでないっ。
・・・しかし一雨きそうじゃ。
どこか雨をしのげる場所を探さねば・・・」
邪見は小さな体を目いっぱい伸ばして辺りを見回した。
「りん、ちょっと見てくるからここにおれよ」
「はあい」
りんは再び手元の花を摘み始め、邪見はりんを雨に当たらせないためにも早く、と手ごろな洞窟を探しにその場を離れた。
自らに無言で課せられた仕事に文句を言う邪見は、とうにいなくなった。
主がこの人間を慈愛するのも、あたかも初めから決まっていたかのように受け入れている。
不思議なものだ、と我ながら思うが、案外自分も単純じゃった、と割り切ることにした。
少し丘を下った先に、ちょうどよさげな洞穴を見つけた。
雲はすでに空一面を覆い、昼前の空気を重くしている。
急がねば、と先ほどの花畑へ戻った。
「おおいりーん!向こうに・・・って、あれ?」
りんがいたはずの場所には、その影さえない。
「りん?りーん!」
邪見の声が曇天に吸い込まれていく。
嫌な予感がした。
「りん!?返事をせんかっ!りーん!!」
冷や汗をたらし丘中を駆け回りりんを探すが、その姿はどこにもない。
りんが座っていた傍らに、作りかけの花冠が静かに落ちている。
ぽつり、と水滴が邪見の額をぬらすと、たちまち大粒の雨が落ちてきた。
邪見は雨音よりも大きく、己の血の気が引く音を聞いた。
まままままずいっ・・・!!
りんが一人でどこかへ行くはずもない。
むしろ行く当てもない。
攫われたにきまっとる・・・!
あぁ、じゃからあの娘はどこか抜けておると前々から言っておったんじゃ・・・!
どうせ一人でぽーっとしていて攫われたに違いない。
お前は大妖怪殺生丸さまの妖気と匂いがついておるから気を張っておれ、とあれほど言っておいたのに・・・!
能天気な顔をしおって・・・!!
りんを一人残した自分のことを棚に上げて、邪見は悪態をついた。
今は阿吽もいない。
りんを探しに行くことも、逃げることさえできない。
邪見は自分の不運を呪い、己の最期を感じた。
・・・わしの命、ここまでか・・・
ぐじゅぐじゅと涙と雨が入り混じり、音を立てた。
そのときふっと、暗い周りがさらに暗い影を落とした。
それに気がつく暇もなく、邪見はどっしりと降り立った阿吽の太い足の下敷きになっていた。
「ぐっ・・・!ぐぇっ・・・!せ、せっしょ・・・」
すでに現状をあらかた把握したらしい主は、下で呻く邪見を気にもかけず、阿吽からそのまま飛び立った。
初めてのことではない。
おおかた、大妖の妖気に惹かれた下賤な妖怪がりんを餌にこの殺生丸を釣ろうというのだろう。
わざとらしく残されたりんの匂いを辿りながら、そうと分かっていながらも罠にかかる己を笑った。
・・・だがなぜ。
りんの匂いはあっても、仕掛けた妖怪の匂いがない。
それをいぶかしく思いつつも、行ってしまえばよいこと、と先を急いだ。
てんてんと残されたりんの匂いを拾いながら深く森を抜けていくとき、ある匂いが痛むように殺生丸の鼻を刺激した。
否応なく殺生丸のしなやかな眉は上がる。
・・・りんの血・・・
殺生丸はさらに速く風を切って飛んだ。
陰鬱とした空気が重くのしかかり、濃い霧がたなびく銀糸を湿らした。
りんが攫われたことは、多々ある。
監督不行き届きだと、犬夜叉の連れにあつかましくもたしなめられたことさえある。
この殺生丸が目的ならば、その以前にりんを傷つける意味はない。
あるとしたら、殺生丸の焦りを誘うこと、だろう。
りんを攫った何者かの頭の弱さを失笑した。
突如、ぽっかりと空間に殺生丸を誘う歪みが生じた。
迷う理由もない。
殺生丸は進んだ。
青と黒が混沌としたような視界が広がっている。
りんの匂いが強くなった。
低く地を揺するような笑いが響いた。
「・・・来たか、殺生丸・・・娘を取り返しに・・・」
いかにも、といったふうな低い声が馬鹿らしく思えた。
「さしずめこの殺生丸を取り込もうと言うのだろう。できるならば好きにすればよい」
挑発するような妖の声に、さらにそれを嘲笑するかのような声が広がった。
「ふん・・・きさまなんぞに興味はない・・・
わしは・・・その刀・・・天生牙が欲しい・・・」
姿は見えないのに、腰の天生牙を舐めるように見つめる視線を感じた。
「きさまに扱えるような代物ではあるまい」
「それはわしが決めることだ・・・さぁ、それをよこせ・・・」
素直に渡すはずなどない。
それを分かっているのだろう、混沌とした世界の向こうに、小さな光が見えた。
「・・・見えるか、殺生丸・・・お前が連れ戻しに来た、人間の小娘だ・・・」
宙に横たわるりんのかたわらに、幾度も目にした子鬼がむらがっていた。
思わず目を見張る。
息を細かく吸うような笑い声が響いた。
「そうだ・・・あれはあの世の使いだ・・・ここはあの世とこの世の境界・・・
人間である小娘は死んだも同然となる・・・
・・・意味が、わかるか・・・」
「・・・天生牙と引き換えに、りんを、と言うのか」
笑い声と共に、地も揺れるようだった。
「・・・そうだ・・・物分りがよいな・・・
きさまにこの娘を生き返らせることはできまい・・・
だがわしならできる・・・
さぁ、どうする。
大事な刀か、人間の小娘か・・・」
再びりんに目をやった。
りんに向けて天生牙を抜いたあの時が波のように迫ってきた。
殺生丸は刀を抜いた。
「・・・よろしい・・・刀を捨てろ・・・」
これほどまで言いなりで、見知らぬものに屈するなど。
権威も、誇りも、滑り落ちた天生牙とともに地へと投げ出された。
乾いた音が響いた。
「欲しければくれてやる」
一瞬の静謐が広がり、先ほどとはうって変わった高い、それも見知った声が鳴った。
「殺生丸、ずいぶんと優しくなったものだな」
暗い世界が一転した。
気付けばそこはいつかの城。
母の城だった。
すべてに気付くと共に、怒りよりも深いため息がこぼれた。
「・・・なんのつもりだ」
りんはというと、見慣れた赤の台座に寝そべっている。
ゆっくりと上下する胸は、りんが生きている証。
「余興だ」
端麗な顔は一寸たりとも表情を崩さず言い放った。
反して殺生丸の顔は一気に嫌悪を露にした。
「いや、はじめはただそなたらの様子を見に暇つぶしに来たのだがな。
おそらくこの娘の教育でもしているのだろうと思ってきてみれば、娘はひとりではないか。
そなたも、緑の小妖怪さえいない。
ゆえに、攫ってみた」
淡々と述べられる真実に呆然とする。
――私はこれの遊びに振り回されていただけだというのか
「・・・ふざけたことを」
「・・・殺生丸、そなた、この娘を守るのではなかったのか?
ひとりにして、どこぞの妖怪に食われてしまってもよいような存在であったのか?」
「・・・」
「そなたは己を買いかぶりすぎている。
人の弱さを知っているようで、何も知らない。
・・・娘は攫ったのが私だと知っても、お前を疑わなかった。
必ず来ると待っていた」
りんがそう言う姿は目に浮かぶようだと思った。
妖の母が不安ではないのかと尋ねても、元気にうなずくばかり。
「だって殺生丸さまは来てくれるもん」
「この娘に、お前以上はいない。
・・・ぞんざいにするでない」
地に落ちた刀を腰に収めた。
「わかっている」
眠るりんを抱き上げ、担ぐようにして城を発った。
しばらく飛んでもいまだ眠っているりんの白い首筋が目に入った。
赤い傷が入っている。
ふさがってはいるが、かすかな血の匂いがした。
母がしたのだろう。
そのまま首を傾けて、傷口に舌をあてがった。
濡れた首筋は光り、その細さを強調した。
守るとは何なのか。
信じるとは何なのか。
微かな花の香がするこの幼子が、教えてくれる気がした。
黄昏時の人
※遥双葉様への捧げ物です。
遥双葉様のみ持ち帰り可でございます。
重すぎて落ちてくるのではないかと杞憂するほどの大きな天道が、辺りを赤く染めていた。
ここにいろと言われて、どれくらい経ただろう。
まだ幾日もしていない。
しかし近頃にないほどの遅帰りだった。
阿吽が親しげに頭を摺り寄せてくる。
硬い鱗に手のひらを滑らすと、満足げに妖獣は目を細めた。
邪見が置いていった厚手の衣を肩に掛け、はあと息を吐いた。
濃く白い靄が現れて、薄く伸びて消えてゆく。
寂しくない、と言えば嘘になる。
不安か、と聞かれたら自信を持って首を横に振る。
帰りを待つことなど、苦でもなんでもない。
日が経つにつれて積もりゆく寂しさも、いつかいつかと帰ってくる愛しき姿を思い浮かべれば、憂いものではなかった。
地に円をいくつも描いた。
「これが、阿吽ね。首がふたつあるでしょ。
これが、邪見さま。一番小さいの。
それから、これがりん。
その隣が、殺生丸さま」
あどけない指先でなぞったそれは、いびつな曲線を描いていたが、なんとなく上手なのではないかという気がしていた。
「殺生丸さまのおでこには、細いお月様が一つ」
描かれたものの上に、ぽつりと小さな丸が新たに現れた。
それはじんわりと地面に溶け込んだ。
かと思うと再びそれは上から落ちてくる。
ぽつりぽつりと数が増えては消え、やがてりんが描いたものは無数の水滴によって姿を消してしまった。
積もり積もった寂しさが溢れると涙になるのだと、初めて知った。
さくり、と軽い音がする。
また一滴ぽつり、と涙が落ちた。
再びさくり、と聞こえる。
小さく鼻をすすって、顔を上げた。
細長い影が見える。
さくり
地を踏みしめる柔らかな音がやけに大きく聞こえた。
影の背後にある光が大きすぎて、よく見えない。
――誰そ彼と問いしわが身を思いしや
赤き陽に照る君待つ我を――
いつぞやに聞いた歌が頭を巡った。
ゆっくりと大きくなる影はやがて人型をなし、穏やかな風にその髪を運ばせていた。
「りん」
響く声がじんじんと熱くなって身体に広がる。
知らぬ間に足は駆け出す。
精一杯伸ばした腕を回したその身体は、黄昏の太陽に照らされて、緋色に輝いていた。
※遥双葉様に捧げます。
雪白草二周年おめでとうございます!
神か 妖か
「何のつもりだ」
角ばった指が弾けるようにに音を立てた。
鋭い爪が薄暗い曇天の中白く光っている。
「何ということはありませぬ。この娘を頂戴しに来たまで。穏便に済ませましょうぞ」
りんを片腕に抱きあげたその男は雅な笑みを見せた。
細身な身体に純白の袴をまとい、紅を引いた様に唇は赤い。
「…きっ…きさまっ、りんをどうするつもりじゃっ!」
「ですからどうするつもりもありませぬ…ただ傍に置くのみ」
男は愛しむようにりんの髪を梳いた。
力が入らないのか、垂れた腕は男を拒むことはない。
ただ黒い瞳だけが不安げにきょろきょろと動いた。
男が触れた部分からりんに汚れが侵食する気がして、殺生丸は地を蹴り男に爪をふるった。
「…勝手なことを」
しかしその爪は空を切った。
殺生丸の眉間に縦皺が走る。
先程男が突如現れ、りんを攫った際、殺生丸が問答無用にはなった技もまた、男を傷つけることはなかった。
故に、男の背後にある岩ばかりが崩れてゆく。
(…何故触れられぬ)
「物分かりが悪うござますね。妖ゆえの愚かさでしょうか。
…しかしこれ以上、神を冒涜することは許せませぬ」
男は静かに手のひらをかざした。
途端に殺生丸の体は青い炎に包まれる。
炎は生き物のようにうねり、青く爆ぜた。
(―――こざかしい真似を)
殺生丸の妖力が炎を飲み込み、うごめくそれを消し去った時にはすでに男の姿はなかった。
それも、りんをつれて。
「…せっ…殺生丸さまっ!りんがおりませぬ!」
「見ればわかる」
突然静寂を取り戻した荒野は、ますます殺生丸の癇に障った。
「…殺生丸さま、その…りんをお助けには…って、お待ちくだされー!!」
淀んだ空を見据えて宙へと飛び立った主の毛皮に、邪見は必死に飛びついた。
――匂いは、ある。だが何故――
空に散った男の忌まわしい匂いと、かすかなりんの匂いを探った。
「・・・殺生丸さま、あやつ『神』がどうとか申しておりましたが・・・何者でありましょうか・・・」
ちらりと上目遣い気味に主を除き見たが、その顔は深い剣呑を含んでいて、下僕の言葉など耳に届いていないようである。
しかし殺生丸も、脳内には先ほどの男の妙な言葉が響いていた。
(神、だと。・・・そのようなもの、ひ弱な人間が生きる縁(よすが)として作ったただの偶像に過ぎぬ。
何であれ、この殺生丸を愚弄した礼、返してくれる)
己に言い聞かせるように繰り返した。
突風が体を纏い、男がすごい速さで移動しているのがわかった。
鋭い風に当てられ、ほうけた頭がすこしすっきりした。
体に力をこめると、男は腕の中のりんを見下ろした。
今まで幾度もさらわれたが、こんな温かな目で見つめられたのは初めてで、正直戸惑った。
「・・・あ、あの・・・っ殺生丸さまのところに返して!」
男は悲しげに眉を寄せた。
「それはなりませぬ。これはあなた様の幸のためでもあるのです」
――何を言うのだろう、この人は。
りんの幸せなんて、ひとつしかない。
「・・・っ返してっ!殺生丸さまのところに返してーーっ!!」
男はりんの額につと指を当てると、りんの動きがぴたりと封じられた。
「・・・手荒な真似はしたくありませぬ。
大人しくしていてくだされ。
・・・・・・伊弉冉(いざなみ)様・・・」
(・・・伊弉冉・・・?)
匂いをたどり、行き着いたのはこじんまりとした古城だった。
(ふん、おおかた結界でも張ってあるのだろう)
つと指を伸ばして、こちら側と古城の境となるべきところに触れた。
しかしそれは殺生丸を拒むことはなく、なめらかに受け入れた。
(・・・なんじゃ、結界もはっておらんのか。
拍子抜けじゃわい)
飄々とする邪見に対し、殺生丸の眉間はさらに中央に皺を作った。
中からは忌まわしき香りと、香のような匂い、そしてりんの匂いが入り混じって空中を泳いでいた。
迷うことなく足を踏み入れた。
(・・・静かだ。あまりに・・・)
音もなく眼前の屋敷の障子が開いた。
「来てしまわれたのですか、妖。
何度来られても、伊弉冉様をお返しすることはできませぬ」
「はっ!?いざ・・・?
貴様、何を抜かしておる!!
殺生丸さまは貴様のような雑魚のせいでりんを・・・ぶぎゃっ」
殺生丸の足の下敷きになって、言葉は続かなかった。
「この殺生丸を愚弄した返礼に来た」
ぱきりと爪を鳴らすが、男は動じない。
「・・・ここは聖域。殺生はいけませぬ。
・・・妖よ、本当はここにいることすら辛いのではありませんか?」
「・・・莫迦な」
そういえば、と邪見も辺りを見回した。
体を動かすたびに、かすかな抵抗のようなものを感じる。
それは白霊山の聖気に比べればあまりに微弱であるが。
「このようなちぃ~っぽけな力に、殺生丸が屈するわけあるかっ!馬鹿者め!」
男は邪見のほうを見向きもしない。
「あのお方は、愛しき伊弉冉様の魂を継いでおられる。
故にあなたのような妖怪と共にあるべきではありませぬ」
「・・・何を」
男は淡々と述べた。
「我が血族はこの大和の国の創造神、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)を祖とする家系。
数年前、伊弉諾様の配偶となる伊弉冉様が生まれ変わったと告げられた。
それを感じられたのか、伊弉諾様の魂は、なんとこの私とひとつになった。
故に、私は太古の神、伊弉諾尊そのもの――
妻である伊弉冉様と共にあるのは至極当然のことでしょう。」
「・・・それがりん、だと」
「いかにも」
男は満足げに目を細めた。
無駄に冷えた空気が辺りの閑静さを物語っていた。
それがますます殺生丸を苛立たせる。
りんの姿が見当たらないことも気にかかった。
「・・・人間如きの御託はどうでもよい・・・死ね」
大妖の足元は一瞬で砂を巻き上げ、瞬きよりも早く殺生丸の体は男のすぐそこまで迫っていた。
標的めがけて、腕が振り上げられた。
男の目が一瞬だけ、かっと見開く。
――そこで、殺生丸の動きが止まった。
「殺生は好みませぬというておるのに。
分からないお方です」
困った、というように闘志むき出しの敵を目の前にして、男は慌てるそぶりさえ見せない。
振り下ろされることのなかった腕に力をこめるが、それは頑として動かない。
「聖域内では妖の力を使うことはできませぬ。
これもイザナギノミコト――神の御力。
りんと言う少女はお諦めください。
まもなく、儀式は完了する・・・
そうすれば伊弉冉様が完全に召喚され、りんという少女の存在は消え、神の復活が宣告される・・・」
恍惚とした顔で、男は目を閉じた。
「あぁ、そうすれば私も伊弉諾尊(いざなぎのみこと)としてこの地に蘇る・・・」
ゆるゆると男の口角は上がった。
赤すぎる唇が狂った月の様だった。
「そのときは・・・あなた方妖怪に居場所は作りませぬ」
あれからどれほどここにいるんだろう。
殺生丸さま
殺生丸さま
殺生丸さま・・・
銀の姿が脳裏に浮かぶたびに、それをかき消すかのように白い靄がりんの頭を覆った。
頭が・・・重い。
りんがこれ以上余計なことを思考するのを妨げるべく、不気味な何かが脳内に溶け込んでくるかのようだった。
体は押さえつけられたいるわけでも、縛られているわけでもない。
ただ白い台の上に寝かされているだけ。
先ほど巫女のような人が来て、りんの着物を白い装束に着替えさせた。
・・・能面のような、表情のない顔。
恐ろしい鬼の顔より怖かった。
どんどんどんどん体の重みは増す。
抵抗しているつもりはないのに、体の奥が侵入してくる何かに抗っているのかのようだった。
・・・負けてしまえばどうなるんだろう。
しかしりんにどうすることもできず、ただ寝そべることしかできなかった。
どどどどどどどどうすればいいんじゃ・・・!
せ、殺生丸さまの力が抑えられておる・・・!!
な、何故わしは動けるんじゃ・・・?
御母堂様の言う、『小妖怪』じゃからか・・・?
しかしだからといって・・・ってそんな場合じゃないわっ
り、りんはあの屋敷の中におるんじゃろう・・・
ここはわしが突撃してりんを奪還・・・
いやいや男が屋敷の前にいるのに入ることなど叶わぬ・・・
そ、それならばこの人頭杖であの男をメッタ焼きに・・・!
いや、男と数寸しか離れぬところに殺生丸さまがおられる・・・
男だけを燃やし尽くすなどという技量のあること、わしにはできんっ・・・!
もし殺生丸さまの銀の髪を燃やしてちりちりにしてしもうたら、それこそわしの命の果てるときじゃ・・・!
いや、しかしここでりんを失くしてしもうたら、結局はわしも殺されるかもしれん・・・
あぁ、どうすればいいんじゃぁぁぁ!!
邪見は動きを封じられた主の背後で、懊悩として悶絶していた。
そのとき、ふらりと屋敷の奥を白い影が掠めた。
殺生丸の眼孔が開く。
「おや、終わりましたか」
現れたのは表情のない白い顔に、白い着物を纏ったりんだった。
ふいに殺生丸の体が動くようになった。
封じられた力が消えたらしい。
男は殺生丸の存在を無視するかのように、りんの元へ歩み寄った。
「・・・伊弉冉・・・愛しき妻・・・二度と黄泉へは行かせぬ・・・」
男は殺生丸の存在を無視するようにりんの頬を滑り撫でた。
「・・・きっ・・・貴様っ・・・りんに何を・・・」
威嚇するように、邪見は人頭杖を振り回した。
「これで伊弉冉は我妻として再び光臨した・・・
表情のないところを見ると、まだ完全ではないらしい・・・
しかしそれも時機のこと・・・
すぐこれまでの記憶もなくなる・・・」
――記憶もなくなる、だと・・・?
愚かな。
りんはりんのままだ。
「戯言に付き合うのは終わりだ」
殺生丸はりんを避けるように、男に爪を振るった。
今度は男を透けることはなかった。
男が紙のようにひらりとよけたからである。
(こやつ・・・!殺生丸さまの技をよけおった・・・!)
男は片腕でりんを抱きすくめた。
「考えてみてくだされ。
たとえ記憶はなくなっても、この少女は永久に我と共にある。
何の危険もない、未来永劫の幸を手に入れる。
少女の溢れ出る記憶が目に見えるようだ。
幾度も危機に瀕したとみえる。
そのような目に合わせておきながら、それでも傍に置くつもりですか?
それこそ妖怪の利己心の塊ではないでしょうか」
――言い返す言葉こそない。
もっともだ、だが。
表情のない少女の頬を、液体が一筋流れた。
「・・・りんの幸だと?笑わせてくれる。
利己で結構なものだ。
りんの居場所など・・・私の傍かあの世しかない!!」
大妖の周りの風は、音を立てて巻き上がった。
「・・・ここでの攻撃は無駄だと」
白い体は男をすり抜け、屋敷の奥、この一帯に充満する香の元へと走った。
「っ、まさか香壺を・・・!!」
濃い匂いを醸す拳ほどの大きさの壺を、殺生丸の爪は的確に斬りつけた。
砕けた破片が辺りに飛び散ったと同時に、屋敷に満ちていた忌む香りが消し飛んだ。
すっとりんが息を呑む音が聞こえた。
「・・・っ・・・!離して!
殺生丸さま!!」
自由になった体は白い着物を引きずりながらも屋敷の中の殺生丸へと腕を伸ばした。
迷うことなくその勢いのままりんを肩まで抱き上げた。
「・・・よくもっ・・・!
蘇った伊弉冉の魂が・・・っうあっ!!」
りんを抱え、殺生丸が男を通り抜けると同時に男の体は崩れ落ちた。
ぼたりと重い血の塊が殺生丸の爪から滴る。
もう用はない。
殺生丸は地を蹴った。
「・・・待って!!邪見さまが・・・」
「いる」
え、と足元を見ると、ふわふわと揺れる白毛に邪見は必死の形相でしがみついていた。
(忘れられるかと思った・・・)
冷たい風が頬を切る。
誰も口を開こうとはしなかった。
生臭い赤が手を滑る感触と、りんの温もりしか感じなかった。
「可哀想な人だったね」
つとりんが口をついた。
「・・・」
「いざ・・・とかいう神様と、もう一度会いたかったんだね」
「・・・くだらん」
「りん本当に生まれ変わりなのかなあ」
「・・・」
「・・・りんはりんなのになあ・・・」
りんに似つかない深い嘆息を、殺生丸は深く吸い込んだ。
りんはりんだ。
永久の命など必要ない。
ただいつか来るべき別れは、どちらかが死ぬとき以外は許さぬ――
改めてPさま、キリ番リクエストありがとうございます!
書き始めも完成も少し遅くなってしまい、大変申し訳ありません;
りんちゃんが攫われて、感情を激した丸さま
ということで、お気に召していただけたでしょうか;
実は、このお話は私がとてもとても感銘を受けた作品を
お借りして書き上げさせていただいたものです。
正確には、終盤を書き上げた際、・・・ん?これってあのサイト様の作品になんだか・・・
てな感じで気付いたのですが←
その作品とは、七緒さまが管理される
【You will see fire but you're cool as ice】さまの『奪還』という作品です。
殺りんファンの皆様ならご存知かと思われますが;
急遽私は図々しくも七緒さまにご連絡し、この旨を伝え、小説公開のお許しを懇願したところ・・・
なんと了解していただけたのです!!
まさしく殺りん小説を書いていてよかったと思えた瞬間でした。
さらに七緒さまから励ましのお言葉まで頂き、感謝で言葉もありません;;
七緒さまの作品を想像して・・・といっても、本当の『奪還』という作品は
この小説の欠片にも満たない素晴らしいものです。
殺生丸の美しくなびく髪
少し剣呑を含んだ眉
細く白い手から流れる赤い血
着物に染み込んだ血痕
そんな殺生丸の着物を握り締めるりんちゃんの愛らしい手!!
あぁ・・・言い尽くせません・・・
ずばり皆様も【You will see fire but you're cool as ice】さまに
お邪魔してご覧になってください!
お許しを得て、この場で紹介させていただきました。
本来ならば、Pさまへの御礼小説としてひとつ
『奪還』への感銘のあまり溢れてしまったものがひとつ
という形で公開すべきところですが、
Pさまへの御礼を書き上げ中に突然湧いてしまったものですので、
こういう形となってしまったことをお詫びいたします。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。
管理人:かの