悪戯
いつくらい昔のことであったろうか。
あのころわしは生涯このお方についていこうと心に決め、長い旅路をこの主と共にしてきた。
どれほど無碍(むげ)にされようと、いくら虐げられようと、わしが殺生丸さまにいただいた御恩は雲よりも高く、この命、殺生丸さまに捧げたも同然じゃとさえ思っている。
強くて、お美しく、気高く、そして冷たい殺生丸さま。
だからこそ、そのようなお方が、人間を、しかも手のかかる小娘を連れ歩くようになられたのには、心底度肝を抜かれた。
殺生丸さまは老体のわしにりんの世話をさせ、わしはいつの間にか殺生丸さまの従者と言うよりりんの子守となっていた。
しかしまぁそこまではよい。
はじめはうるさくて小ざかしい奴じゃったが、いつしかわしも素直で愛らしいりんを、孫がいたらこんな風なのじゃろうかなどと思うようになっていた。
・・・じゃが、まさか殺生丸さまが・・・殺生丸さまがりんを連れて国に落ち着きなさり、し、しかもりんを正妻としてしまうとは!
・・・あぁ、今思い起こしてもくらくらするわい。
・・・いや、事が起こる前から殺生丸さまがりんに特別な気を懸けていることは、いくらわしでもわかっておった。
りんのほうが殺生丸さまに恋慕の思いを抱いておることも。
・・・じゃが、いくらなんでも種族が違いすぎる。
これにはさすがの殺生丸さまも頭を悩ませたに違いない。
しかし、本当はあのお方は何にもお悩みになられてなどいなかったのかもしれない。
まるでそれが必然であるかのように、殺生丸さまは手を回し、りんを揺るがぬ位置につけた。
・・・もしかすると、ご母堂様のご支援があったのかも知れぬ。
まさかこの目で殺生丸さまの御祝言を見ることが叶うとは・・・
りんも田舎娘とは思えぬほど美しい容で・・・
って泣いていても仕方ない。
とにかく、お二人は夫婦となったわけじゃ。
りんは中宮であるにもかかわらず、せわしく動き回り、また、しっかり妻としての役目も果たしているようじゃった。
殺生丸さまのほうも、政務を淡々とこなし、相変わらずわしは足蹴にされておるが、殺生丸さまのその仕事ぶりに、かつてりんとの祝い事に口うるさくしていた一族の古い輩も閉口するしかなかったようじゃ。
そして、二人が夫婦となって一年が過ぎようとしていた。
―――何層にも重なった足音がせわしく耳に立つ。
刀を握るためだったはずの手のひらが、今はいやな汗を握っていた。
隣で縮こまっている邪見が、時たまのどを引きつらせたような音を出す。
鬱陶しかったが、それを気にかける心の余裕さえなかった。
ぴんと張り詰めた空気が痛いくらいだ。
―――そのとき、向かいの東屋から新しい命の匂いが届いた―――
まったく、あのときの殺生丸さまといったら。
お子は、推古が取り上げたらしい。
りんはお産で息も絶え絶えになったようで、安静を要するといわれ、りんのもとへ我先にと行こうとしていた殺生丸さまでさえ、助産師たちに制されていた。
殺生丸さまはりんのことを気にかけすぎていて、ややさまのことを忘れていたらしい。
推古が産湯から出たばかりのお子を殺生丸さまに手渡した。
殺生丸さまは腕の中のお子をいつものような感情のないお顔で眺めていらっしゃった。
このようなときくらい、泣いて喜べばいいものを・・・!
・・・いやいや。
殺生丸さまはお立ちになったままお子をご覧になっておるので、わしからはややさまのお顔どころか指さえ見えん。
拝見を請うわしの声はもちろん届いておらんかった。
するとややさまは小さく赤い手を伸ばし、殺生丸さまの美しい髪を握り締められた。
そのとき、わしは殺生丸さまがりん以外のものにあのようなお顔をされるのを初めて見たのじゃった。
わしが始めてややさまを拝見したときは、目を疑った。
むしろ泣いて喜んだものじゃった。
薄く御頭に映えた黒い髪と、すこしつってはおるが愛らしく丸い瞳。
お子はりんに瓜二つじゃった。
これにはさすがの殺生丸さまもさぞお喜びになるだろうと思っておったが、存外あのお方は淡白であった。
りんは徐々にではあるが体力を取り戻し、子をあやしては母の顔をする。
殺生丸さまはそんなりんを見ては、微かであるが喜んだお顔をなさった・・・様な気がせんでもない。
・・・あぁ、これで屋敷は花が咲いたようになるじゃろう・・・
すっかり安泰気分のわしは思い込んでおったのじゃ。
お子は当然、顔だけでなくすべてがりんそっくりであろうと。
・・・しかし・・・
――――
「なぬっ!?また結緋(ゆうひ)さまがいない!?」
邪見は下から困り顔の従者を怒鳴りつけた。
「はぁ・・・すこし目を離したすきに・・・」
「はよ探さんかっ!」
まだ六つといえど、半分はこの国の首である大妖の血が流れている。
そのような者が安易にふらついていてはたまったものではない。
邪見はなぜいつもという思いを抱きつつも、額に汗して屋敷を探し回った。
「あら邪見、楽しそうね」
ふと気付けば、探していた姫は屋敷の梁の上に器用に座っている。
手には大輪の秋桜が数輪。
「ゆ、結緋さまっ!またそんな危ないところに・・・!」
邪見の言葉をあしらうかのように、少女は空気のように軽く地へと飛び降りた。
一瞬宙に浮いたかのように見えるが、そんなはずはない。
この少女は飛ぶことはできないのだから。
結緋は肩まで伸びた黒髪を靡かせて、自慢げに腕の中の花束を見せた。
「秋桜」
「・・・は、はぁ・・・お綺麗ですが・・・」
少女の意図することがわからずに、邪見はまた種類の違う汗を流した。
「持って」
腕に預けられた秋桜は邪見には多すぎて、足元がふらつく。
結緋は構わず邪見に押し付けた。
少女のすこし尖った耳が小さく動いた。
少女は背中の障子が開くと同時に振り返った。
「母上!邪見が秋桜を摘んじゃったの!」
邪見は状況を呑み込めず、ふらふらしながら花々を支えている。
上からやわらかく、しかし厳しい声が降ってきた。
「あぁ!邪見さま、秋桜は寒いところに咲くんだから屋敷の中じゃ可哀想よ!
せっかく私が日のあたる涼しいところに移し変えたのに・・・」
「え・・・?い、いや、これはわしじゃなくて・・・」
冷たい汗が背筋を伝うのを感じながら、邪見は黄色い目を母の足に纏う少女へと向けた。
整った顔は無情にも邪見と目を合わそうとはせず、小さく舌を出した。
「あぁ~!根元からじゃなくて途中から折っちゃったの?
これじゃぁ植え直しもできないじゃない・・・」
りんの失望した顔に、邪見は己の危機を感じた。
・・・まずい
そう思うよりも早く、邪見の危機の根源はすでに来ていた。
「せっ・・・殺生丸さまっ・・・」
りんがしょぼくれている。
視線は秋桜。
それを持つ邪見。
殺生丸が邪見を張り倒す理由は充分なほどそろっていた。
しかし殺生丸の視線は邪見ではなく、小さな少女へと向けられていた。
「結緋」
少女は母の着物のすそへと身を隠した。
「殺生丸さま?」
りんの問いを聞き流し、殺生丸は己の子の後襟をつかみ引き上げた。
「ちょっ・・・殺生丸さま!?」
離してとわめく少女を宙ぶらりんにして、殺生丸は顔色一つ変えぬまま問い詰めた。
「庭を直せ」
少女の細い眉は一気に皺を集める。
「どうして結緋がそんなことしなきゃいけないの?
悪いのは邪見でしょ!?」
「・・・お前の匂いが庭に残っている」
形勢逆転。
邪見は殺生丸の着物の裾に隠れ、愛らしくも悪き少女をのぞき見た。
妻の花を汚す者は我が子であろうと許さない。
殺生丸の瞳は結緋から非難の言葉も出させなかった。
「・・・直す!直すから下ろして父上!」
ぱたりと手が離され、自由の身となった少女は綺麗に降り立った。
あなたがやったの?と目を丸くする母を見ないように父の脇を通り抜けてから、結緋は思い出したかのように振り返った。
「じゃあ父上は潰しちゃった母上の畑、戻したんだ?」
眉をひそめる父と、それに詰問する母の声を後ろに聞きながら、少女は颯爽と屋敷を飛び出した。
まったく、結緋さまは大きくなられるにつれて、ますます手がつけられんようになった。
いや、わしだけの話ではない。
父である殺生丸さまも、閉口しておられるようじゃった。
目を細めて口元に手をやって思案なさるお姿は・・・そう、まるでかのお方の母、ご母堂様のようであった・・・
また結緋は外へでも遊びに行ったのであろうか、屋敷はしんと静まり返っていた。
清涼殿とも取れる場所の一室で、りんと殺生丸は久しく二人になった。
そのためかすこし気恥ずかしげに、しかし近頃よりくだけたように話しかけた。
「殺生丸さま、すこし顔色がよくないね」
りんの言葉に、疲れに似た感覚が殺生丸の肩に重くのしかかった。
「困ったものだ」
「・・・結緋のこと?・・・すこしおてんばね」
「・・・あれは・・・母に似ている」
「ご母堂さま?」
りんにとって義母は、気高く美しくそして殺生丸のような包容力を持つ、すばらしい妖怪(ひと)だ。
そのような者に自分の娘が似ていると言われるなど、本望である。
「優しいお方だものね」
殺生丸はますます肩を落とした。
りんはやはりわかっていない。
母がどれほどこの息子をいたぶり、その妻を愛でているかを。
殺生丸はりんの細い腰に手を回し、引き寄せた。
突然顔の近くに寄った厚い胸板に、りんの鼓動は高鳴った。
これも久しぶりの感覚である。
「疲れているのは私だけではないだろう」
「えっ・・・りんは別に・・・」
りんの言葉を無視して、背中に回した手を下へと滑らす。
触れられたところが熱い。
殺生丸は、りんの潤んだ瞳に引き寄せられるかのように唇を近づけた。
「母上―――!!」
荒々しい足音共に、襖が乱雑に開いた。
「来て!蛹が繭を破ってるの!蝶々になるんでしょう?早く早く!!」
慌てて顔を離したりんと殺生丸の間を割るようにして、結緋はりんの腕をとった。
向こうから息を切らして走る邪見がいる。
おおかたまた邪見を撒いて来たのだろう。
「ゆっ結緋!はしたないでしょう!」
「ごめんなさい、でも早くしないと蝶々になっちゃうよ!
・・・でも母上、お顔が赤いけど大丈夫?」
ぱっと頬に手をやった。
「なっ・・・なんでもありません!」
「なら早く!」
結緋にせかされるがままりんが歩を進めたそのとき、何かにそれを阻まれた。
「行かぬ」
りんの手をつかみ、りんの代わりにそう答えた。
いつかのように再び結緋の後ろ襟をつかみ、部屋の外へと放り出した。
目を剥く邪見がちらりと見えた。
「父上!?」
目を丸くする結緋の眼前で、戸は固く音を立てて閉まった。
開けようと手をかけるが、それは堅固にして開かない。
「ずるいっ父上!!結界なんて!」
結界に守られた部屋の中で、殺生丸はりんを抱き寄せた。
「殺生丸さま、なんで」
「・・・たまには私の相手をしろ」
そのまま閨へと運ぶ。
「せっ殺生丸さま・・・!まだ夕刻・・・」
「夜はあれと寝るだろう」
その通り、夜になれば必ず結緋がりんの布団へともぐりこむ。
いつの間にか、孵化が終わるとわめく結緋の声も聞こえなくなっていた。
今両親が何をしているのか、結緋が分からなくてよかった・・・などと考えていたりんも、次第に体が熱を帯びてきた。
殺生丸は久しぶりのりんの匂いに軽く中毒を覚えながら、貪るように肌を重ねた。
─────
「・・・ねぇ邪見、父上たち今何してるの?どうして結緋は入れないの?」
「さっ・・・さぁ・・・判りかねますが・・・」
若干目を泳がせて答える邪見を、結緋は不審げに眺めた。
(・・・殺生丸さま・・・なにも息女の目の前で・・・)
殺生丸の短気に、邪見はますます先が思いやられた。
・・・いつか絶対この結界を破って母上を取りかえしてやる・・・!
幼ながらに母の奪還をもくろむ結緋であった。
色狂い
目の前の光景は何かの間違いだろうか。
そう、間違いに違いない。
妖怪と小さな娘の一行という奇妙な組み合わせを前にして、半妖と人間たちの一行は必死に考えをめぐらせた。
頭は懸命に違う違うとうめいているのに、視界に飛び込んできた光景はそれを許さない。
一番に口を開いたのは犬夜叉だった。
「・・・お・・・お前・・・何、してる・・・?」
弟の問いに答えるそぶりも見せず、殺生丸の視線は腕の中に納まった一人の少女へと一身に注がれていた。
りんは周囲から痛いほど見つめられ、心地いいはずのそこはとても居心地悪かった。
「・・・あ・・・の――どうしちゃったの・・・?」
「・・・えーっと・・・りんもなんかわからないんだけど・・・」
そのとおり、かごめに問われるものの、りんも今現在どういう状況なのかてんで分からない。
分かるのは、今自分が抱きすくめられていることだけだ。
今朝からの経緯を伝えようと口を開いたとき、細い指にあご先をつかまれて上を向かされた。
端正な顔を熱くりんを見つめていた。
「他事をするな。――私だけを見ろ」
犬夜叉をはじめ、かごめたち一行は、全身の血が引く音が聞こえる気がした。
ことの始まりは今日の朝。
いつものごとく爽やかな朝だった。
これまでなら、目をさめた途端朝の寒さに体が少し振るうのだが、今日は何故だか心地よく目覚めることができた。
朝だと分かっていたが、その心地よさに引きずられて再び眠りがりんを夢へといざなう。
寝返りをうとうとして、はたと気付いた。
この、自分を包む暖かなものは何・・・?
そういえば、りんの肩を支える腕がある。
もしかして、と横になったまま顔を上げれば、やはりそこには大妖の美しき顔があり、銀の髪が眩しく光っていた。
「・・・せっ・・・殺生丸さま・・・?」
「起きたか」
「ご、ごめんなさい、りんもしかして」
寒くて思わず殺生丸さまの白毛にもぐりこんでしまったのだろうか。
「何を慌てることがある」
「だ、だって」
「眠るお前の顔を見たいと欲しただけだ」
そういう殺生丸の細く光る目は、いつもより少し緩やかな弧を描いていた。
それからというもの、りんが成す一挙一動を殺生丸が目ざとく、そして熱した視線を向けてくる。
逃げるように殺生丸の視線をかすめ、邪見の元へと駆け寄った。
「じゃじゃじゃ邪見さまっ!殺生丸さまなんだかおかしいよっ!!
どうしちゃったの!?」
いつもより幾分猫背になった邪見はりんから視線を外すように目を泳がせた。
「・・・わ・・・わしゃ知らんぞっ・・・!
いいいいいいいつものせせ殺生丸さまとお変わりないではないかっ」
「そんなっ!全然違うよ!なんだか殺生丸さまじゃないみた」
「私が何だ」
耳元で低くささやかれたときにはすでに、りんは白い片腕の中に抱き込まれていた。
邪見は一瞬白目をむき、卒倒した。
「せっ、殺生丸さま」
「あまり遠くへ行くな」
ふわりと香るその白毛の中で殺生丸の匂いを感じ、りんは思わずほうと息をついた。
・・・って落ち着いてる場合じゃない!
「ねぇ殺生丸さ・・・」
「・・・せ、殺生丸・・・と、りん・・・ちゃ、ん・・・?」
目の前に突如現れたのは、犬夜叉一行だった。
────
「ねぇっ、殺生丸さま降ろしてっ」
そう請えば請うほどりんを抱きしめる腕の力は強まった。
「離せばお前は行くだろう」
「そう・・・だけど、かごめさまたちとお話したいの!」
「離したくはない」
「~~っっ!」
大妖怪と人間の小娘の会話とは思えない。
かごめたちは思わず目をそらした。
「・・・なんか、見てるこっちが恥ずかしいね・・・」
珊瑚の言葉に、全員がそろえたように頭を垂れた。
「ねぇっ、殺生丸さまお願い・・・?
少しだけでいいから、降ろして・・・?
必ず戻るから・・・」
りんの懇願に、殺生丸は渋々といったようにりんを降ろした。
「・・・ありがとう」
りんは一目散にかごめたちの元へ駆けた。
「どどどどどうしよう・・・!かごめさま・・・!
殺生丸さまが・・・殺生丸さまじゃないよ・・・!!」
「おおお落ち着いてっ・・・!とりあえずどうなってるの?」
りんは手早に朝からの殺生丸の様子を話した。
「・・・ついに狂っちまったか」
犬夜叉の言葉にりんは青くなった。
「と、とりあえず、殺生丸は過保護になっちゃったってことだろ?」
過保護というより・・・
かごめの頭に『バカップル』という単語が浮かんでいた。
「・・・りん」
背後から熱のこもった声がかけられて、りんの肩は小さくはねた。
呼ばれるがまま殺生丸に駆け寄ると、再び肩の高さまで抱き上げられた。
かごめたちに、冷たく険のある視線が向けられる。
そんな顔されても・・・
かごめたちも困り顔を見合わせるほかなかった。
ふいと犬夜叉たちから視線を外すと、殺生丸は再びりんを愛で始めた。
「・・・もうどうしようもねぇな・・・」
「邪魔だという顔をされましたし・・・」
「・・・行こうか・・・」
かごめたちはりんを見捨てるような後ろめたい思いを感じつつも、その場を立ち去った。
本当におかしい。
あれから殺生丸さまはりんを離してくれない。
どこへいくわけでもないのに。
「ねぇ殺生丸さま・・・邪見さまが起きないよ」
「放っておけ」
「殺生丸さまどうしちゃったの?」
「どうもしていない」
「どうしてりんを離してくれないの?」
「お前との時間を少しも無駄にはしたくない」
「でもいつも一緒にいるのに」
「それでは足りぬ」
「でも・・・」
「お前は私と共にいたくはないのか」
銀の髪がふわりとりんの頬を撫でた。
「もちろんりんはずっと殺生丸さまといたいけど・・・」
りんは一度言葉を呑み込んでから、口を開いた。
「いつもの殺生丸さまのほうが好き・・・」
突如、殺生丸の目が少し大きく開き、そしてゆっくりと閉じた。
まるで何かに打たれたようで、りんは目の前で起きた殺生丸の変化を食い入るように見つめた。
瞳を閉じた殺生丸は立ち尽くしたままで、その後ようやく目を開けた。
「・・・・殺生丸さま・・・?」
目を開いた殺生丸は、眼前にあるりんの顔を見て一瞬身を引いた。
しかしそのまま動くこともせず、りんの目を見たままほかの事を考えているようだった。
いつもの殺生丸さまだ。
固まったままの殺生丸は、今自分が何故ここでりんを抱き上げているのかについて考えているようだった。
「・・・殺生丸さま・・・?大丈夫・・・?」
その問いに答えるように、殺生丸はりんを静かに地へ下ろした。
「・・・邪見は」
「あそこで伸びてる」
「・・・」
殺す。
殺生丸から滲み出る妖気がそう物語っていた。
「・・・ま、待って!」
りんはのびた邪見に駆け寄ってぱちぱちと頬を張った。
「邪見さま!おきて!おきて!!」
「・・・んん・・・?はれ、りん・・・はっ!そうじゃ・・・!わしは殺生丸さまからの遣いの品を間違えて・・・」
はたと気付いた頃には、すぐに目の前には大妖の白い袴が。
だめじゃ、と言う間もなく邪見の体は宙を浮き、くるくると舞って空に光る星となって飛んでいった。
ことの経緯はこうだった。
邪見はいつもの如く殺生丸の遣いとして出され、言われた品を預かってきた。
りんが近頃よく熱を出すからという理由で買わせた粉末となっているそれを殺生丸に差し出そうと腕を伸ばしたとき、その紙袋の裏のしるしに気付き、手を止めた。
(強力 危険 媚薬)
殺生丸もその文字に気付いた瞬間、突風が邪見の手からその袋を奪い、無情にもその中身は散らばり、殺生丸はそれを一身に受けた。
それが昨夜の出来事―――
「・・・とんでっちゃった・・・」
りんは空に消えた邪見を見送り、ちらりと殺生丸を覗き見た。
「・・・なんだ」
「・・・ううん。もういつもの殺生丸さまなんだなぁって思って」
意味深な言葉に殺生丸の目はすいと細まった。
「あぁ、安心したらおなかすいちゃったぁ。
そういえば朝もあんまり食べられなくて・・・」
木の実が生っているらしい古木に駆け出そうとしたりんの体を、大きな力が抱きとめた。
「離れるな」
思わず足元がほつれそうになった。
「殺生丸さま!?まだ戻ってないの!?」
ただの本心だ、と言わんばかりに妖の鼓動は高かった。
はぁぁあ・・・
なんか馬鹿みたいな話になってしまいました;
甘甘じゃないですね←
糖分高め苦手すぎます・・・
精進します・・・
ご期待に沿えるようなものでないとおもいますが、ともかくもななさまキリリクありがとうございました!
熱を乞う
※ほんのすこーしだけ、大人め表現あり
冷えた指が、生温かな舌が、火照る肌を伝う。
何度も自分の名を呼ぶ声に、思わず堅く眼をつむった。
するりと頬をなでる感覚に目を開けると、珍しく上気した金の双眸が己を見つめている。
冷たいぬくもりのある口付けが落とされた。
中心が熱い。
一つになった瞬間、りんの頬を一筋の滴が流れた。
白くて小さい、しかし強く根付いた花を見つけた。
…持って行ってみようか。
ごめんねと呟いて、りんはその花を摘んだ。
「…殺生丸さま」
銀の大妖は憂いげに髪をかきあげて瞳だけをこちらに動かした。
「お花、奇麗でしょう?殺生丸さまみたいに白くて…」
殺生丸は花にもりんにも視線を向けることなく、再び顔をそむけた。
りんの口から発せられた言葉は行きつく場もなく、宙に漂ったまま空気に溶け込んだ。
いつからだろう。
殺生丸さまがりんを見てくれなくなったのは。
それだけではない。
話しかけることも、りんの話を聞いてくれているのかもわからない。
触れようと手を伸ばせば空気のようにすり抜けられる。
その理由もわからない寂しさを埋めてくれるものもなかった。
主の不自然な所作に、さすがの邪見も訝しがっていた。
「…お前、殺生丸さまに何かしでかしたのか?
ご機嫌を損ねさせおって」
「りん何も…してない、と思うんだけど…」
「殺生丸さまのわしを見る目までますます冷たく…」
「泣かないで、邪見さま」
鼻をすする邪見を慰めるものの、一番泣きたいのはりんだった。
芳しい、若菜の匂い。
あの日からこびりついた様に脳裏から離れない。
眩しくて目を細めるほどの白い肌。
自らの指を滑らすと、全身が逆立つようだった。
「…ねぇ、殺生丸さま」
その記憶を振り払おうと無表情にあらがっているところに、おもむろにりんが現れた。
切り株に腰かけた殺生丸から見れば、眼前にはりんの着物の合わせ目がある。
その向こうにあるはずの膨らみに目をやって、思わず生唾を飲み込んだ。
ひきはがすように視線を戻す。
りんはもぞもぞとしながら切り出した。
「あの…ご飯を、とりにいきたいんだけど…」
「行け」
「で、でも、森の中に入らなきゃいけなくて…」
「邪見を連れて行け」
「…殺生丸さまがさっき使いに出したから…」
横目に見える森は、鬱蒼と茂る木々が光を遮って、日暮れ前だというのに薄暗かった。
りんを見ることなく立ち上がった。
「早く行け」
「…あ、ありがとう殺生丸さま…!」
森へと駆け出すものの、本当に殺生丸が来てくれているのか心細くて、何度も振り返って確かめた。
「きのことかないかなぁ」
変に明るい声にも、返ってくるのは冷たい静寂だけ。
先ほどの邪見のつれない言葉がりんの頭を駆け巡っていた。
「まぁ、殺生丸様もお年頃じゃ。いろいろ思うところがあるのじゃて」
「…お年頃?」
「殺生丸さまが父上様の御屋敷をお継ぎになられていたら、今頃は西国の王として君臨し美しい姫君を迎え…」
「…姫君…?」
「むろん、殺生丸さまの妻として」
初めて聞いたその言葉に、殺生丸にとっての自分の存在がどれほど朧かを改めて痛感した。
あの日抱きすくめられた腕の中で聞いた言葉はやはりただの呟きで、実態などないもので。
その場限りの気まぐれで。
それでもあの温もりは本物で。
「…ねぇ邪見さま。…りんってどう見える?」
「は?なんじゃいきなり。どうって…ただのちんちくりんな人間の小娘じゃ」
やっぱり、と落胆した。
美しく、きらびやかで、富も名誉もある女の人と並ぶ殺生丸さまは、それはそれは綺麗だろう。
それに比べて、りんは。
「何を呆けている」
はっと顔をあげた。
気づけば、りんは木陰に生えたキノコを凝視したままその考えにふけっていた。
微動だにしないりんをせかすように、不機嫌な声が再び背中にかけられた。
意を決して、りんは眼下にあるきのこと、そこから少し離れた場所に自生していた黄色い小花を手折り、しかめっ面の主のもとへと走った。
いかにも煩わしげに、突然眼前に現れた娘に視線を下ろした。
「見て!殺生丸さま」
目の前に二つのものが突き出された。
思わず視線を移した。
みるからに、きのこと花である。
「えっと、殺生丸さまは森を歩いているのね」
は、と声が出そうになった。
「…何を」
「いいから!
でね、おなかすいたなぁって思ってたら、目の前にきのこが生えてるの。
…ちょっと汚いんだけど、すごくおなかがすいてたから食べようかなぁって思ってたら、向こうに見たこともないくらい綺麗なお花が咲いてるの!
だから、殺生丸さまはあのお花も欲しいなぁって思うのね。
でも殺生丸さまは手が一つしかないでしょう?
そしたら殺生丸さまはどっちを採る?」
面倒だとばかりに殺生丸は口を開いた。
「片手でどちらも採ればよかろう」
「それはだめ。どっちか」
すかさず断られた。
妙に饒舌なりんの言わんとしていることが、なんとなくわかる気がした。
「…お前なら」
「え?」
「お前ならどうする」
問いを返され、少し戸惑いつつも考えた。
「りんは…お花も欲しいけど…やっぱり食べ物のほうが大事かな…食べなきゃ死んじゃうかもしれないし…
りんはきのこ、かな」
それが生きる糧だというのなら
「…私とて同じこと」
手の中のきのこを強く握りしめた。
「…ほんと?」
「何故うそぶく必要がある」
「…きのこでいいの?」
「いいと言っている」
きのこがいいわけではないが。
りんはさらに一歩殺生丸へ踏み出した。
「じゃぁどうしてりんを見てくれないの?」
見下ろしたりんの唇は、小さく震えていた。
「・・・りんは・・・りんは少しでも殺生丸さまと長くいたくて・・・
あの夜も・・・
・・・もうりんがいらないのなら、そう言って・・・?」
遠くで鳥の鳴く音が恐ろしく響いた。
静謐さが二人を包む。
「・・・なぜ」
常より低い声にりんは顔を挙げた。
端麗な妖怪の顔には、未だ見せたことのない弱弱しさが見え隠れしていた。
「ならば、何故泣いた」
「・・・泣い・・・?」
いつのことだろうと記憶をたどった。
「あの夜、お前は私を受け入れたのだと・・・
だがお前は泣いた」
そう言う殺生丸の顔を覗き込み、思った。
―――はじめてみた、こんな苦しげな顔をするこの人を―――
そして思い当たった。
途端にあのときの光景と感覚が一気に溢れ出し、自然とりんの頬を染めた。
それと同時に得体の知れぬ暖かさが胸の中にほっこりと現れて、目の奥が熱くなった。
りんは手を伸ばし、白い塊となっていた妖の拳に指を絡めてそれを解いた。
ゆっくりとその手に頬を寄せた。
「りんは殺生丸さまとひとつになれて嬉しかった―――」
妖の手がりんの顔の上で小さく動いた。
りんはぱっと手から顔をあげ、赤らめた。
「もっ、もちろんすごく恥ずかしかったよっ。
頭の中がぐちゃぐちゃしてなんだかよくわかんなかったんだけど・・・」
殺生丸の手がりんの腰を引き寄せた。
「・・・けど、なんだ」
突然近づいた顔に、自分の赤面を見られたくなくて顔を背けたかったが、金の瞳から目をそらすこともできなかった。
「・・・え、っと・・・で、でも・・・殺生丸さまに触れられて、嬉しか」
続く言葉は呑み込まれ、殺生丸はうつむきがちなりんの顔を押し上げるように口付けた。
頭がぼうっと重く、腰に回された腕がなければ立っていることもままならない。
口内に侵攻してくる物に意識を奪われてしまいそうで、りんは殺生丸の襟元を握り締めた。
唇を離すと、酸素を求めてりんの口は大きく開いた。
その隙に殺生丸の唇はりんの頬から首、鎖骨へと伝う。
くすぐったくて身をすくめると、ふわりと体が浮き、あれ、と思ったときにはすでに横になっていた。
「・・・ならば」
低い声が上から降る。
「・・・ならば態度で示せ」
それを合図に再び至る所に口付けが落とされる。
指が首裏を伝うだけで、全身の肌が粟立った。
着物の襟から侵入する指先から逃れるように身をよじればよじるほど、白い肌があらわになる。
すでに闇へと吸い込まれた森の中で、りんの肌だけがやけに光っていた。
「・・・殺生丸さま」
「・・・」
「りんに触れられて、嬉しい・・・?」
「・・・あぁ・・・」
暗闇の中でも、妖の目にはりんの微笑がしっかりと届いた。
「・・・りんも・・・りんも嬉しい・・・」
額の髪を撫でるように唇が掠めた。
「・・・りん、きのこでよかったよ・・・」
「・・・もう黙れ」
─────
妙に爽やかな風がりんの髪を揺らした。
細く目を開けると、視界は白かった。
手触りのよいそれをしっかりと握り締めて顔を上げると、金の双眸とぴったりと目が合った。
「・・・せっ・・・しょうまるさま・・・あ、れ?・・りんどうして・・・」
「・・・お前があのまま眠ったからであろう」
あのまま・・・?
かっと顔が熱くなった。
「・・・何故赤くなる・・・?」
近づいてきた白い顔は、少し口角をあげていた。
「・・・しっ・・・知らないっ・・・!」
逃げようともがくが、すでに体はすっぽりと白毛に包まれていて、逃げようもない。
りんは諦めて、おとなしくその中に納まった。
急に妖の胸に何かがこみ上げて、むせかえるような気分だった。
りんも同じようで、堅く目を瞑りそれに耐えていた。
殺生丸の視線に気付き顔を上げ、りんはすこし頬を染めて微笑んだ。
それが、あまりに艶やかで。
りんの胸にこみあげた何かが苦しくて、おもわず目を閉ざした。
視線を感じて見上げた先には、端麗な面(おもて)があった。
それが、あまりに艶麗で。
引き合うように口付けた。
それはあまりに愛しくて───
玉鬘
「櫛はね、女を写す鏡なのよ!」
いつぞやか、愚弟の連れの人間が豪語しているのを耳にした。
偶然旅の途中で出くわした時だったろうか。
りんのふんふんとうなずく姿が横目に映った。
「つまり、女の子にとって髪は宝物なのよ。大事にしなきゃいけないの」
どこからそのような呑気な話題が挙がるのか、奇怪極まりない。
「でもりんの髪…かごめさまみたいに柔らかくないし、珊瑚さまみたいにまっすぐでもないから…」
女は大きく頭(かぶり)を振った。
「見た目の質じゃないのよ!たくさん梳いてあげればどれだけでもきれいになるんだから!」
それから幾日、たまたま邪見を遣いに出して、たまたま大陸から商人が来ていて、たまたま漆の造りがあって、それゆえ今この手に赤い櫛があるわけで…
かける言葉も思いつかず、無言でりんに手渡した。
突き出されて思わず受け取ったらしいが、これが何の用をなすものなのか分かっているのであろうか。
櫛と己の間を黒目がちな丸い瞳がよく動く。
「綺麗…櫛?…りんにくれるの?」
「不要ならば邪見にでも渡せ」
「ううん…!すごく…すごくうれしい…!
ありがとう殺生丸さま!!」
表面をなでると、上品な手触りが指先を冷やす。
緑と黄の葉模様が赤色に映えていた。
櫛に見入っていてはたと気付いた時には、殺生丸はすでにはるか遠くに進んでいて、りんは慌ててそのあとを追った。
うらめしそうな邪見に笑いかけると、ふんと鼻を鳴らされた。
「…まったくりんにばかり…甘やかして…わしは…」
今日ばかりは、邪見の小言も気にならなかった。
暇さえあれば櫛を眺めた。
白く光る赤も、小さな緑と黄の模様も、見れば見るほど可愛らしく見える。
何度も邪見に見せたが、そのたびにしかめっ面をされた。
「お前見てばかりで、せっかく殺生丸さまに頂いたのに髪を梳かんのかっ。
みっともない相をしおってっ」
やつあたりぎみな邪見の言葉への反論を飲み込んで、そういえばと思った。
もらった櫛でまだ髪を梳いでいないのだった。
なんとなく髪を通すのを阻まれた。
櫛が汚れてしまいそうで。
そうだ、頭を洗ってから梳こう。
「邪見さま、頭洗ってきてもいい?」
「なっ、なんじゃいきなり。痒いのか」
「ちがうもんっ。ほら、殺生丸さまも休憩するみたいだよ」
見れば、すでに木陰に腰を下ろす者が一人。
(殺生丸さまはお前が何かと言うから待ってくださっているのだろうっ)
りんを頭から叱りつけたい衝動を殺生丸の手前抑えた。
「ね?いいでしょ?」
「し、仕様のない奴じゃ。さっさと行って来い。
川に落ちるなよ」
「はーい!」
颯爽と小川へと駆け出した。
櫛を落とさぬように古木の幹に置き、着物をたすきがけた。
指を少し水につけると、小さな痛みが指に刺さる。
少し冷たいかな。
ええいと頭を川面に突っ込んだ。
ごぼごぼと頭上で聞こえるのがおかしい。
それが自分の呼吸だと分かっているけれど。
一気に顔をあげると、肺が酸素を求めて広がる感じがした。
再び髪だけを水に浸す。
流れに任せてなびく髪を丁寧に手で梳かした。
さあさあという川の音に、どこか不快な音が混じっている。
荒い、息のような…
ざっと頭を川面から引き離して振り返ると、すでに遥か彼方へと走っていく男の姿が見える。
木の幹には、置いたはずのものが影さえない。
一瞬で事態を判断した。
「やだっ…!!待って!!」
濡れた髪が顔にはりつくのもかまわず、走り去る男の後を追った。
自分の心臓の音だけが聞こえて、顔を濡らすものが川の水なのか何なのかすらわからない。
息ができない。
足がもつれる。
そのまま地面に引き寄せられるように転んだ。
顔をあげると、男も立ち止まって振り返っていた。
卑しい、歪んだ笑みがりんを舐めるように見ている。
嫌な汗が背中を伝う。
もう追いつくはずもないのは分かっていた。
それでも再び膝をつき駆け出そうとした瞬間、りんの傍らを白い影が横切った。
男は一瞬にして笑みを崩し、軽く後ずさって尻もちをついた。
ぱきりと何かが鳴った。
男が見上げる先には、男とは似ても似つかない端麗な眼差しが冷たく男を見下げている。
「何を慌てることがある?」
殺生丸は微笑さえたたえていた。
それはさらに男の顔から血色を奪った。
こいつ…女か…?
いや、男…
なんだ、この感じ…
殺生丸の全身から滲む妖気に、男の首筋を冷や汗が伝う。
「わ…わる、かった!
返す!返すから…!」
慌てて握りしめていたものを殺生丸へと突き出した。
しかしそれはすでに原形を留めてはいなかった。
ちょうど真ん中で、それは無残にも2つになっていた。
「…あ…」
「貴様が触れたものなどに用はない…貴様にも」
瞬きよりも速く、白い腕が男の首へと伸びた。
「…く…や、やめ…」
爪が首元へ食い込み、男の顔は青白から紫へと変わった。
口端から液体が漏れる。
「…だめっ…!殺生丸さまっ…殺しちゃいや…」
腕はそのままで首だけ動かしてりんを見た。
その場にへたり込んだまま、ただ首だけを横に振っていた。
「…人が死ぬのはいや…」
小さく舌を打った。
不本意だがそのまま指を開くと、男はだらしなく地に落ちた。
はげしく咳こむと、男は殺生丸にもりんにも目をくれず不格好に走り去った。
その後姿を嫌悪の眼差しで見送り、足元の赤いものへ視線を下ろした。
寂しげに横たわったそれに一瞥をくれると、未だにうずくまったままのりんのわき腹に腕を差し込み持ち上げた。
小脇に抱えるようにして歩きだした。
りんも黙ったまま手足をぶらつかせて運ばれた。
向こうに火が爆ぜているのが見える。
邪見が火を焚いていた。
「髪を乾かせ」
焚火の前にりんをおろし、自分もそばに腰を下ろした。
邪見がせっせと世話を焼き、りんの着物をはたはたと乾かす。
りんはされるがままとなっていた。
「…櫛…せ、せっかく…殺生丸さまにもらったの、に…
ごめんなさい…ごめんなさ…」
「謝ることなど何もない」
「ごめんなさい…ごめんなさい…」
一点を見つめたまま繰り返すりんに視線を移し、殺生丸は軽く息をついた。
「…来い」
「…え…?」
「来い」
顎で殺生丸の前へと促される。
膝をついたまま移動し、殺生丸と向かい合った。
「…逆だ」
慌てて向きを変え、殺生丸に背を向けた。
何が起きるのかと肩を強張らせていると、何か細長いものが3本ほど、りんの頭皮をなでた。
それが殺生丸の指だとわかるまで少々時間を要した。
温度のない指が湿った髪を束ねては梳いていく。
指が通るたびに肩の力が抜けていった。
心地よくて目を閉じた。
「…櫛は必要ない」
その言葉に、りんも小さく頷いた。
分かっていたから。
今、この指が通る髪は世界で一番美しいだろうと。
翡翠
―――近頃、りんが。
「殺生丸さま、どこか行くの?」
「…なぜわかった」
ふふ、と柔らかく笑う。
「なんとなく」
おかしいのだ。どこか。
「殺生丸さま、さむい?」
「…何故」
りんは上弦の月を見上げて口角をあげた。
月光に照らされた顔は白い。
「今夜は風が冷たいもんね」
…お前が寒いのではないか
「あ、りんは別に寒くないよ。ただなんとなく、殺生丸さまは寒くないのかなーって」
気味が悪いほど。
「…お前、何故…」
「え?」
口に出しかけたが、やめた。
「いや、いい」
「変なのー」
ころころと鈴を鳴らすような声が己を包む。
その心地よさに、つい目を閉じて聞き入ってしまった。
声の余韻さえも。
「えっ」
突然りんが声をあげた。
りんは大きな黒い瞳はさらに大きく。
「なんだ」
慌てて首を振る。
「ううん、なんにもっ」
…何故顔が赤い。
りんが奇妙なそぶりを見せるようになったのは、先月の大潮――満月の刻。
りんが眠りにつき、つられて邪見も船を漕ぎ出したころ、1人外へ出てみた。
行く当てなどない。
夜の匂いが好きだった。
二匹が眠る洞窟に戻り、異変に気づいた。
見たところ何の代わりもない。
少しりんのほほが高潮しているようにも見えるが。
気になったのは、匂い。
少し湿った草の匂いも、かび臭い土の匂いも、先ほどあったはずのものがかき消されたかのように消えている。
――何があった。
考えている間に日は昇り、りんが日の光に照らされて目を覚ました。
第一声に腹が減ったと訴えたため、特にそれについてそれ以上気には留めなかった。
しかし、突き止めておくべきであった。
こちらを見ては驚いたり、ほほを染めたり、まったく持って気味が悪い。
殺生丸は意識とは別にりんを長く見つめた。
りんはせっせと白つめ草を摘んでは繋げる作業を続けている。
そのとき、りんの胸元で何かが太陽の光をこちらへ届けた。
――あれは・・・
「りん」
低く通る声で呼ぶと、それは子犬のように瞳を丸めてかけてくる。
尾があれば間違いなくちぎれんばかりに振るだろう。
「はいっ!なあに?」
「それはなんだ」
視線はりんの胸元、着物の奥に注がれている。
「あっ・・・!」
条件反射でおもわずそれを自らの手で着物の上から覆った。
「なんだと聞いている」
「これは・・・その・・・」
もじもじと言いよどむが、殺生丸の射抜くような視線に耐えかね、首からそれを取り外した。
細い紐でつながれたそれは、翡翠色に光る小石。
殺生丸はそれを受け取った。
顔の近くに寄せる。
――妖気はせんな・・・
「これをどうした」
「えっと・・・もらったの・・・」
「誰に」
「・・・ご母堂様」
思わず石を取り落としそうになった。
なんということ。
あやつはりんに餌付けでもする気か。
しかし動揺は顔に出ないのが常。
「・・・何故」
「少し前のお月様が綺麗な日、夜ね、なんだか風が吹いたから目を開けたら殺生丸さまがいなくて・・・そしたら洞窟の入り口あたりに長い髪の人がいたから、殺生丸さまだと思って・・・」
それでその人影に近づいた。
しかしそれは殺生丸ではなく、その母。
「殺生丸はおらんのか」
「あっ・・・えーっと・・・御母、堂・・・さま・・・?」
「久しいな、娘」
美しい妖怪は妖艶な顔で微笑んだ。
「殺生丸さまは・・・どっかいっちゃってるみたい、です」
「なんだ、せっかく母が顔を見に尋ねたというのに。ほんに愛想のないやつよ」
真夜中に訪ねる方もどうかと思うが。
「まぁよい。ところで、殺生丸は優しいか?」
「うん!すっごく!」
少女はためらいもなく答える。
「ほお・・・想像つかんがな。
あやつは笑うのか」
「うーん、あんまり・・・りんも殺生丸さまが笑ってるところ、見たことないかな・・・。
あ、でも邪見さまを蹴り飛ばす前にちょっと笑ってる」
・・・それは少し違うと思うが。
「・・・そうか。まあ母も手に負えぬ奴だ」
りんが小さく笑った。
「りんも、殺生丸さまの考えていることわかんないけど、殺生丸さまがいっぱい笑ってくれたら嬉しいな・・・」
「あやつがそう笑っているのも気味が悪いがな。・・・そうだ、そなたに良い物をやろう。この石を・・・」
そう言ってりんの首に小石のついた紐をかけた。
「これは・・・?」
「昔あれの父に貰ったのだがな、私が持ち続けていては石も退屈だろう」
「えっ・・・!そんな大切なもの・・・」
「よいよい。持っておれ」
りんは手のひらに石を転がした。
月の光を受けてそれは白くも輝く。
「・・・綺麗・・・」
殺生丸の母は薄く笑った。
「では、そろそろ行くか」
「えっ、殺生丸さまに会っていかないの?」
「あれに黙ってお前に会ったと知れたらまた面倒だ」
そういい残して、妖怪は大きな風を巻き起こし、りんが思わず目を閉じて次に開いたときに既にその姿はなかった。
然り。
ようやく謎が紐解けた。
あの晩、かき消された匂い。
あれの仕業か。
「あの…殺生丸さま…黙っててごめんなさい…」
「…あれに口止めされたのだろう」
「…」
妖怪は去り際、思い出したようにりんに告げた。
また面倒だから、石のことは殺生丸に言うな、と。
しかしまだわからない。
その石は何をしてくれる?
「どうだ、娘、我が息子の心の内は」
その声に、殺生丸はいつもに似合わず反応を示した。
「御母堂様!」
殺生丸とりんの横に、音もなくその妖怪は現れた。
――何故、私はこの妖気に気付かなかった…?
「何故私が匂いをしないのか、と言いたげだな」
「…」
「妖気を消すことなど造作もないわ。それを思うとそなたも青いな」
殺生丸はあからさまに嫌悪を顔にあらわした。
「何の用だ」
「娘に渡した石を返してもらいに来た。上から見ていたのだがな、まだ早かったようだ。
娘、惑わして悪かったな。…返してもらうが、異存はないな?」
「うん!」
りんは素直に石を手放した。
「りんに何を吹きこんだ」
女は肩をすくめた。
「見ての通り、石をやっただけだ」
日の光を浴びると、それは何色にも輝いた。
「これは、我ら一族に伝わる翡翠の欠片だ。妖気があるがな。もちろん妖気など感じられては雑魚に狙われて仕方がない。故に消した。
これは、人の心を読む…正確には、我らの後継者選びの道具のようなものだ。
そなたの父の時には使う必要はなかったようだがな。
太古、謀反が多くあった頃、真の後継者選びに使われていたとそなたの父に聞いた。
その欠片だ。故に小娘が持てば、近くにいる犬一族のお前の心の声のみが聞こえるということだ」
「…あれ、でも御母堂様のはわからなかったよ」
「私の内がそのようなものに読めるものか。
つまりお前がそれだけまだ未熟だということだ」
殺生丸は返す言葉もない。
「そんな顔をするな、殺生丸。小娘がお前が何を考えているのかわからぬというから、少し遊んだだけだ。娘を怒るなよ」
言いたいことだけ言い残すと、来たときのように母は風に乗って去った。
妙な沈黙がりんと殺生丸を包む。
「殺生…丸さま…?…ごめんなさい…」
黙って心を読んでいたことに、多少気まり悪そうな顔をする。
無論心を読まれるなど、気分良いものではない。
「…私は何を思っていた」
予想外の殺生丸の言葉に、りんは言葉に詰まる。
「えっ…風が冷たい、とか…日が昇るのが遅い、とか…りんの髪の匂いが…甘い、とか…」
自分で言ったにもかかわらずりんは耳まで赤い。
そして思い出した。
りんが一番大きな反応を示した時、己が何を思っていたか。
「でもでもっ、殺生丸さまそのときもいつもと全然お顔変わらなかったしっ!御母堂様の御心もわかんなかったし!きっと何か違うものが聞こえたんだよ!」
と根拠もない弁解をする。
りんも思い出していた。
思わず聞こえた殺生丸の心の声に、声をあげるほど驚いてしまったことに。
「…そうだよね?」
殺生丸はりんと目を合わせようとはしなかったが、確かに呟いた。
「…石は真実だ」
りんは一瞬目を見開き、しかしすぐにそれは弧を描いた。
――りん、私のものに――