春遠からじ
大妖はいつもと一寸変わらず涼しい顔をしていた。
少女はどうしてそうも早く口が動くだろうと思われるほど、楽しくて仕方がないといった様子で言葉を並べる。
そして小さな妖怪は、肺の中が空っぽになってしまうのではと心配するほど、長い長い溜息を何度もこぼした。
一行は主の言葉通り、西国の屋敷へと向かっていた。
そこはかつて西国を治めた大妖怪改め殺生丸の父が根城にしていた屋敷である。
現在父は亡き者となり、母は天空の館で自由気ままに暮らしている。
主のいない館がどうなっているのか誰もわからぬところであるが、おそらく太古からの従者が帰らぬ主を待ちながら暮らしているのだろう、と殺生丸は踏んでいた。
…待ってはいない、かもしれないが。
屋敷が近付くにつれて、懐かしくもある匂いが濃くなることに、殺生丸の鼻腔は縮んだ。
――ここに戻ることになるとは。
特にもう戻らぬなどと考えたわけではない。
だが、果てた父を目の当たりにして、強さに限りはないのだと知った。
世で最も力を誇った父が、いとも簡単に人間のために命を投げうったのだ。
それならば、私は父上を超える。
そのためには、帰る場所などあってはならなかった。
「ねぇ殺生丸さま。
殺生丸さまのおうち、今はだれもいないんだよねぇ。
御母堂様もあのお城にいるし…
ついたらまずはお掃除だね!」
はあ~と、邪見はまた深い溜息を吐きだした。
「ほんっとぉ~に考えの足らんやつじゃなお前は!
殺生丸さまの御館には何百もの使用人が控えておるに来まっとるじゃろ!
今この時も館はピッカピカじゃわ!」
「あ、そっか!
邪見さまはそこに行ったことがあるの?」
邪見は古い古い記憶を引っ張りだした。
「殺生丸さまにお着きするようになってすぐのころ、二、三度伺ったことはあるがな。殺生丸様もそれ以来じゃろう」
「ふーん…」
りんはそれきり感慨深げな顔をして黙りこんだ。
りんが口を閉ざすと、突然周囲は静まり、すべての音が木々に吸い込まれてしまったかのようだ。
「――ここだ」
「えっ?」
終始無言でいた殺生丸の呟きに、りんは顔をあげた。
「…ここ?お屋敷が?
でも殺生丸さま、さっきから周りの景色全然変わらないよ」
りんのその言葉に反応したかのように、突然一行の視界前方は歪み、その奥には何とも大きく荘厳な門構えが現れた。
「う…わあ…」
りんは中途半端に口をあけてその奥に目を凝らした。
まだ遠くて小さく見えるが、おそらく実際はこれまでりんが目にしたもののどれよりも大きく立派だろう。
まーたこいつはだらしのない顔つきをしおって…
邪見はりんを見上げ、いつものごとく小言が口をつきかけたが、殺生丸が歩を進め、りんもそれに従い屋敷の結界が再び閉じようとしていたため、邪見は慌てて二人のあとを追った。
りんは屋敷に向かって歩きながらはしゃいでいた。
「す・・・すごいっ!
すごいすごい殺生丸さま!
りんこんな大きなお屋敷見たことないよ!」
…りんもここに住むんだね、とぽつりと呟いた。
「…不満か」
「違う!違うよ!
すっごく嬉しい!こんなところに住めるなんて…
殺生丸さまのお家だよっていわれたらやっぱりって思うけど…
りんが住んでもいいようなところじゃないよ…」
殺生丸は少し後ろをついてくるりんを、横目で確かめた。
――この娘は…いいかげんわからぬのか。
「…私がいいと言っている。
お前が気にかけることは何一つない」
りんはその端正な横顔を見上げ、いまいち納得しきらないものの、そうなのかな、と考え直して再び前を見据えた。
屋敷が近付くにつれて、庭でせわしく動く何かがりんの目についた。
一行が門をくぐると、それはつと顔をあげて、カッと目を見開いてこちらに顔を向けた。
妖怪だ。
鬼のような顔をしているが、大きさはりんほどしかない。
りんは思わず殺生丸の袂の裾を握った。
妖怪はわなわなと口を震わせて、食い入るようにこちらを見つめていた。
「…ぼ…坊ちゃん…」
妖怪は殺生丸ばかり見て、りんには目もくれない。
「…みっ皆のものっ…!坊ちゃんが…殺生丸さまが帰ってこられた!!」
ざわりと耳障りな音がかしこで聞こえ、屋敷からは様々な妖怪が飛び出してきた。
「殺生丸さま!!」
「殺生丸さま、よくぞお帰りで…」
「殺生丸さま、お久しゅうございます…!」
それらは一網に殺生丸を囲んだ。
しかしその波は誰かの一言で一気に身を引いた。
「にっ…人間がおるっ!」
険しい視線がりんを貫いた。
「なぜこのようなところに…」
「殺生丸さまが連れてきたのか?」
「よもやこの屋敷に足を踏み入れるのではあるまいな」
「それはない、あれは坊ちゃんの家畜だろう」
りんはそれらの視線から逃れるように、殺生丸の後ろに半身隠れた。
「部屋はあるか」
殺生丸の声に従者たちは再びにこやかな顔を作る。
「もちろんでございます!いつ殺生丸さまがお帰りになられてもよろしいよう、いつも磨いておりました」
殺生丸は無言で歩を進めると、さっと従者たちは道をあけ、屋敷へ促した。
りんもぴったりと殺生丸にくっつき、後に続こうとした。
しかし突然、角ばった指がりんの腕をがっちりとつかんだ。
「どこへ行く!
人間の分際で、殺生丸さまの御着物に触れるとは…お前はこっちだ!」
強い力でりんを引きずり行こうとする。
「…やっ…」
引っ張られる腕に力を込め、思わず目を固くつむった。
しかしその瞬間には、すでに腕は自由になっていた。
目を開いたそこには、しなやかな腕が横切っていた。
その先端の細い指はりんを掴んだ妖怪の首へと延びている。
「…ひっ…」
りんは殺生丸の着物に顔を埋めた。
腕を放された喜びより、苦痛に歪んだ妖怪の顔の恐ろしさが勝っていた。
「…せっ…せっしょ…ま…さま…」
「…今後りんに触れてみろ…殺す」
そのまま地に落とされた妖怪は激しくむせこむと、尻もちをついたまま後ずさった。
殺生丸はりんの肩に手を置き、かたずをのんで眺めていた妖怪たちに向き直った。
「…りんだ。ここに住む。
東の館はりんのものだ。
限られた者のみがりんの世話をしろ」
えっ、と顔をあげたりんにおかまいなしにそう言いきると、呆然とする従者たちとそれになじみきっている邪見を残し、りんを連れて屋敷の中に入った。
りんはまだ殺生丸にくっついたままだった。
もう離れようと思うのに、殺生丸が肩を抱いたまま歩いて行くので、後ろ向きに変な歩き方をした。
「せっ殺生丸さまっ…どこ行くの?」
殺生丸はそれには答えず、大きくふすまが開けた部屋に踏み入った。
そこはがらんと広く、閑散とした部屋だった。
「ここは…?」
「私の部屋だ。
ここへ来たければ、邪見か侍女に言え」
りんは殺生丸から離れて向かい合った。
「…りんは殺生丸さまといられないの…?」
「……来い」
再び歩き始めた殺生丸に、りんは不安でならない胸を抑えて付いて行った。
離れの館は殺生丸の部屋と同じほどの大きさで、同じく閑散としていたが、大きくふすまを開けるとその前には大木の桜が凛と佇んでいた。
「ここがお前の部屋だ」
りんは部屋に入り、中を見回した。
特に何もない。
しかしつと顔をあげると、強く根付いた桜の大木が目に入る。
夏を迎えた今、桜は青々としげっていた。
「…殺生丸さまのお部屋から…遠いね」
「来たければ言えと言った」
「りんも殺生丸さまといたいよ」
殺生丸は軽くため息をついた。
「…お前は、私と寝食を共にするというのか」
「だめ?」
懇願するように殺生丸を見上げる。
今度は殺生丸も、あからさまにため息をこぼした。
―――こいつ、いつまで子供のふりをするつもりだ…
殺生丸は目を細くしてりんを眺めた。
―――十分に、『娘』の匂い…
…食われてしまうとは、思わぬのか…
「…殺生丸さま?」
殺生丸はりんから視線を外し、大木に目をやった。
季節は、初夏――
「…時が来たなら」
――春はもうすぐ――
宵の歌
殺生丸一行は、五月雨の降る夕方、今宵休む場所に向かって歩いていた。
歩くと言っても、りんは阿吽の上にぐったりとうつ伏せに伏せている。
「殺生丸さま…りんのやつ、どんどん熱くなってますが…」
邪見はちらちらと殺生丸を見、りんを見、また返事のない主をのぞき見ては、ため息をついた。
奈落が消滅した今、今までのような特別な旅の目的はなくなった。
邪見は、それでもどこかへ歩き続ける主の背中についていくばかり。
りんはもとよりどこへ行くかなど気にしたことはないのだろう。
いつでも楽しそうについてきた。
ただ、りんがもし人里で普通に暮らしていたなら、十四という年であればそろそろ浮いた話も出てくる年頃。
同い年の女子ならば、嫁に貰われたものもあるだろう。
しかし、りんに「普通」はすでに通用しない。
殺生丸という大妖と、邪見という従者、そして阿吽という妖獣と共に旅をすることがりんのすべてだった。
それは旅を始めて7年程経った今でも変わらない。
話は戻り現在、朝方から降り続く五月雨の中歩いていた夕刻、殺生丸に聞こえないようりんは邪見に耳打ちした。
「ねぇ、邪見さま。
りんお水が飲みたいから、川を探しにいってもいい?
すぐ戻るから」
「んん~?
しかしそのうち今宵泊まるところが…って、りん!
なんて真っ赤な顔しておるんじゃ!」
邪見は、今じゃすっかり自分より大きくなったりんを見上げて言った。
「しぃ~~っ!邪見さま静かにしてっ。殺生丸に聞こえちゃうっ。
りんは大丈夫。お水飲んだら治るから…」
そういいながら、りんの足元は覚束ない。
一方殺生丸は、りんと邪見の会話を背中で終始聞いていた。
何里も先の音さえ聞こえるというのに、りんが少し声を抑えたところで無駄だとまだわからないのかと、半ば呆れながらも、殺生丸はこれからどうしたものかと考えていた。
りんが後をついてき始めたころは、まったくこの少女の様子を気にすることなどなかった。
そのうちいなくなるだろうと思っていたから。
…なぜ天性牙を抜いたのかは未だにわからないが。
だが今は違う。
どんな些細なことも、りんに関われば一大事である。
それを自覚し始めた頃はとうに過ぎてしまった。
今はただ、共に過ごす時を経るばかり。
「殺生丸さまに聞こえちゃうって…殺生丸さまはもうお気づきになっておるに決まっとるじゃろう!
ほら、さっさと阿吽に乗れ!」
りんに何かあったとき、御咎めを受けるのはいつもわしなのじゃから…!
りんはしぶしぶと阿吽に乗ると、力尽きたかのようにすぐに眠った。
そこで今に至るのである。
「…今宵はここに留まる」
そう言って足を止めたのは、小さな荒れた寺社。
人はなさそうである。
りんを阿吽から抱き上げて境内に上り、中の広間にりんを下ろした。
「火を炊け」
「はいぃっ」
りんに風邪をひかせたことの負い目を感じたのか、邪見は薪を探しに、まだしとしとと雨が降り続く外へ飛び出した。
このような日に乾いた薪などあるのかどうかは別にして。
まだ、熱いな…
広い手の甲で、りんの頬を掠めるように触れた。
すると、怠そうに目を閉じていたりんが細く目を開いた。
「…殺生丸さま…ごめんなさい…」
喉もやられたのか、かすれた声がひゅるひゅると音を立てた。
「何を謝る」
「またりんのせいで…」
「何故すぐに言わなかった」
決まり悪そうにりんは
「…ごめんなさい」
と謝るばかりだった。
邪見が薪を持ってきて囲炉裏に火をたき、りんを温めようとちょこまか歩き回っていた。
殺生丸は自らの白毛にりんを抱き込み温める。
それはすでに日常風景の一つとなっていた。
ただ、まだ奈落を追って旅をしていた頃と違うことといえば、抱き上げたときに殺生丸の腕からすらりと垂れる、伸びた細い足が見えることである。
そのほかにも、ふと見せる優美な横顔や、年頃の娘にしては痩せすぎてはいるが、転びかけたりんを抱き留めた際に感じる女らしい肩の丸みは、否応なしに殺生丸にりんが少女から娘へと変わりゆくことを伝えていた。
りんはと言うと、全く変わりなく殺生丸に纏わり付いては邪見にたしなめられるというその性格は幼い頃から何一つとして変わっていない。
あたりまえに抱くはずの感情も、気付くのはあまりに遅かった。
「殺生丸さま…」
「…なんだ」
「…あの…りんの着物…雨で濡れてるから、殺生丸さまのお着物まで汚れちゃう…」
「気にするな」
平然と言い放つ殺生丸に比べ、りんはそれでも落ち着かない。
「でも…」
「それなら脱げばよかろう」
そう言って、殺生丸は顔を動かさずに視線だけでりんを見た。
とたんにりんの頬は朱く染まる。
「えっ…でも…」
────いつからであろう。
このような顔を見せるようになったのは。
「着物が汚れるのが気に障ると言ったのはお前だろう。
それならば脱げばよい」
「えっ・・・気に障るってわけじゃないんだけど…
でも…」
うつむいて白毛を指先でもてあそんでいる。
すると、ぱっと殺生丸の腕から抜け出した。
「あのっ…りん、なんだかもう大丈夫みたい!
うん!だから…今日は一人で寝るね!
ありがとう殺生丸さま!邪見さま!おやすみなさい!」
そう言うと、ぱたぱたと囲炉裏のそばへ行き、ころんとこちらに背を向けて横になった。
…気に食わんな
殺生丸は音もなく立ち上がった。
「はれ?
殺生丸さま、どうしました?」
邪見を無視して、りんのもとへ歩を進めた。
殺生丸のかすかな足音を感じたのか、りんの背中がこわばったのがわかった。
りんのすぐ手前で立ち止まった。
「邪見」
ぴょこんっと邪見は立ち上がった。
「はいっ」
「酒を取ってこい」
「は。
酒…ですか」
邪見はきょとんとしている。
「りんを暖める」
邪見は目をぱちくりしてから、
「は、左様でございますか!
では急いでいってまいります!」
と言い残し、酒を手に入れる当てもないのに邪見は寺社を飛び出した。
邪見がいなくなり、寺社は再び静かになった。
どどどどどうしよう…
邪見さまいなくなっちゃった…
なんだか殺生丸さま近くにいるし~~~!
殺生丸のきぬ擦れの音ばかりが聞こえる。
「――りん」
ぴくっとりんの肩がはねた。
「りん」
再び名が呼ばれる。
黙っているわけにもいかず、そのままの恰好で小さく返事をした。
「…はい…」
自分でも気が違ったのかとも思う。
おかしなことを聞いた。
「…私が怖いか」
それを聞いて、りんはがばっと跳び起きて殺生丸に向き直った。
「違うっ!
違うよ殺生丸さま!」
わかっている。
そんなことは今更聞くまでもない。
「殺生丸さまは怖くないっ!」
それならなぜ私の元から離れた。
「怖いんじゃないの…」
他に何があるというのだ。
黙ってしまったりんを、殺生丸は静かに見つめて先を促した。
しかしそれっきりりんは俯き、黙ってしまった。
立ち尽くしていてもしょうがないので、殺生丸は近くの壁にもたれ、腰を下ろした。
「…殺生丸さま。
やっぱり一緒に寝てもいい?」
りんは俯いたまま呟いた。
「…好きにしろ」
殺生丸がそういうと、りんはおもむろに自らの帯を解いた。
するりと袷を肩から落とし、白い小袖姿になった。
そのまま膝立ちになり、殺生丸の元へ歩み寄り、りんは殺生丸の胸元にすっぽりと収まった。
先刻胸に抱いていた時より、二人を隔てる布はさらに薄くなった。
余計に互いの体温が感じられる。
――――殺生丸さまの手、冷たいな―――
――――これはなぜこうも温かいのだろう。
というか、熱い。
あぁそうか、熱があるのだったな――
「殺生丸さま…
…りん苦しいの…」
殺生丸の頭に疑問符が浮かぶ。
「何がだ」
熱のせいか。
「殺生丸さまといると、なんだかこの辺りがきゅうってなって、すごく苦しいの…」
りんはそういいながら自分の胸を細い指でとんと小突いた。
「…」
殺生丸が黙っていると、りんは続けた。
「あっ、もちろんりんはいつも殺生丸さまのお傍にいたいよ。
でもなんだか最近、すごく苦しくて…
殺生丸といると、りんがりんじゃなくなりそうで…それが怖いのかも」
りんの頭頂部を見つめながら、殺生丸は今更ながら、人との時の違いを感じた。
りんに芽生えたこの感情、捨てるも育むも己次第―――
そしてその感情が枯れずとも、いずれはりんの命が枯れゆく。己の何倍もの早さで、りんの時は進むのだから―――
それならば、その最期の時まで眺めるもまた一興。
「…りん」
静かな御堂に低い声が響いた。
りんは、
りん一人で話しすぎちゃったかな。
うるさかったのかな。
殺生丸さまにとったら、こんなことどうでもいいよね…。
などと返事も忘れて悩んでいた。
「私と共に生きるか」
―――共に、生きる…?
りんはゆっくりと体を反転させ、殺生丸と向かい合った。
顔を上げると、金の月がふたつ、りんを見ていた。
「…それって…」
「…ここより西に、私の屋敷がある。
かつて父が西国を治めていた際の館だ。
父亡き今、館の主は私」
りんは呆然とその月を見つめていた。
「りんも、行っていいの…?」
「それを私が問うているのだ」
「…ずっと、いていいの?」
「あぁ」
「…ずっと、殺生丸さまといられるの?」
「…お前が望むなら」
殺生丸は少し俯き、りんのはねた毛先に手を伸ばした。
この七年間で、伸びた髪――
触れるたびに、なんともいえぬ芳香が殺生丸の鼻を掠める─――
「…りん、行きたい。
殺生丸さまと、ずっと一緒にいる。
…一緒に、生きる」
…ふん…つくづく愚かだな。
殺生丸はりんの髪を持ち上げ、その髪束に浅く顔を埋めていった。
「どういう意味か、わかっているのか」
再びりんはきょとんとする。
「私と共に生きるとは、人の世を捨てるということ。
…お前は人にも、妖にもなれぬ。
どことも交われぬということは、お前にとって耐え難い苦痛となる…
それをわかっているのか」
そう言い、りんの髪から顔をあげた。
互いの息がかかるほど近くで、見たこともないほど暖かく、それでいてとても優美で、艶やかな顔でりんは微笑んでいた。
「りんは、殺生丸さまがいればいいの」
大人びた顔つき
伸びた髪と背丈
高く柔らかい声
それがこんなにも心地よいとは。
右手の細く硬い指で、りんの頬を包んだ。
そのまま瞬きよりも早く、掠めるようにりんの唇に殺生丸のそれが触れた。
ぱちくりと目を開くりん。
まだこれがどういうことかわかってもいないのだろう。
それでいいのだ。
いずれ、わかる時が来る。
いや、嫌でもわからせる。
ただでさえ共に過ごす時は短い。
それならば、りんの身体にこの殺生丸を刻み込む。
一寸、そのままりんを見つめてからふと手を下ろし、殺生丸は暗闇に閉ざされた外界に目を向けた。
りんもつられてそちらを見る。
「…何か…きこえる…」
かすかに聞こえる旋律。
鳥のさえずりでもなく、人の声でもない。
「宵の歌だ」
「?
なに?」
「夜が深まる宵の時、微力な妖怪が集まり鳴くのだ」
そしてこの時、命あるつがいは契りを結ぶ―――
永久(とこしえ)の誓いをたてるときに奏でられる、宵の歌。
今宵は一匹の妖と一人の娘も、宵の歌で結ばれた─―――
――――――
「せっ…しょうまるさま…
邪見めが戻りました~…
酒を手に入れましたぞ~…」
明け方近く、ボロボロになった邪見が体より一回り小さいくらいのひょうたんを担いで帰ってきた。
「商人の妖怪から、酒を買って参りました~…
まったく、あやつはひとところに留まらんので…
ってあれ?りんはどこに…?」
邪見の目に写るのは、壁に背中を預けて前を見据える殺生丸のみ。
しかしその傍らには、小山となった白毛がこんもり。
ははぁ、なるほど。
邪見が近寄ると、それはもぞもぞと動いてぽっこりとりんの顔が覗いた。
熱を帯びていた頬は血色の良い赤みをさしている。
「熱は下がったようですな」
邪見はりんを見て、ほっと一息着いた。
邪見もいつの間にか、りんのことばかり気にしている自分に気が付いた。
りんに何かあったら自分の命の危機であるが故だが。
全く、こやつはわしの孫かっ
りんに言っているのか自分に言っているのかは定かではないが、初めはただの人の子としか思っていなかったのに、今ではすっかりりんに対する態度が変わってしまった自分自身を邪見は顧みた。
まぁ多少は主の変化によるものでもあるが。
今朝はどこへ向かって発つのであろうか。
というか、殺生丸さまははどこへ向かうおつもりなのだろう…
まるで邪見の心の内が聞こえていたかのように、殺生丸が言った。
「屋敷へ帰る」
ぽかんと口を開く邪見。
「…は。
屋敷というのは…その…どこのことでしょか?」
怠そうに殺生丸は言う。
「私の屋敷だ」
私の屋敷って…まさかあの西の?
殺生丸さまの御父上、闘牙王さまがいらっしゃったとかいう…
何故このお方はこんなにも冷静でいられるんじゃっ!
…あそこは妖怪の家人ばかりで、りんなど一歩でも屋敷に踏み込めば八つ裂きにされてしまう!
「いけませんっ殺生丸さまっ!
あそこはりんが入れるところでは……ぶっ!」
無言ですらりと立ち上がった殺生丸に、これまた無言で踏み潰された。
「…私の好きなようにする」
殺生丸は朝日射す外へと歩を進めた。
りんが殺生丸の足があった場所で、
「何故じゃ…」
と呟く邪見をひょいと助けおこした。
「殺生丸さまがいいって言ってるんだから、いいんだよ!
行こっ!!」
そう言って、りんは大きな背中に向かって駆け出した。
外に出て、殺生丸は朝の眩しさに目を細めていると、後ろから聞こえる自分を追う足音に気が付いた。
振り向くと、にかりと笑うりんがいた。
ふわりとすくうように抱き上げる。
ひゃっ
と声をあげて肩に掴まり、また笑う。
日の光の下で、りんの肌は健康的に焼け、幼さを残すもののやはり甘い。
殺生丸は胸いっぱいにその匂いを吸い込んだ。
こんなにも、心地良い居場所を知ってしまったから。
弱さがはかなさに、
はかなさが愛しさにすりかわってしまったから。
だからこそ、共にいようと思う。
殺生丸さまは、こつん、とりんのおでこに殺生丸さまのおでこをぶつけた。
長い睫毛がくすぐったい。
殺生丸さまは言った。
「行くか」
少し笑ってたような気がした。
風に舞え
白い小花が、まるでそういう模様の絨毯のように辺り一面咲き誇っていた。
ささやかな微風がそよぐだけで、その花弁は地を離れて空を舞う。
爽やかな甘さが広がっていた。
「・・・う・・・わぁ・・・」
瞳を輝かせ、りんはその匂いを胸いっぱい吸い込んだ。
「殺生丸さまっ。すごく綺麗なところだねっ。
・・・気持ちいい・・・」
目を閉じても辺りに充満する甘い芳香は、りんの鼻腔をくすぐった。
脳内を麻痺させるように浸透する香りに、思わず頬を緩めた。
終始無言の主は、花と戯れるりんを通り越して、どこか遠くに目をやっている。
少し視線を落として、可憐に咲く花を見て、気付いた。
・・・この花は―――
りんは上目遣い気味に殺生丸を覗き見た。
相変わらず何を考えているのかは分からなかったけれど。
今思い出している人はきっとりんと同じだろう。
───とても綺麗な人だった。
いつも悲しい目をしていた。
背を向ける一瞬前は、いつも殺生丸さまを見ていた。
いつだったか、殺生丸さまがりんと邪見さま、そしてその人を川から助けてくれたとき。
目を開けたその人は、胸に手を当てた。
まるで鼓動を確かめるかのように。
その人はすぐに飛んで行ってしまったけれど
「そんなんじゃねぇよ」って言った顔が
ただ会いたかったんだって言っていた。
殺生丸さまの刀が折れてしまってすぐ、殺生丸さまはどこかへ行ってしまった。
りんは不安げにつぶやく邪見さまとお留守番。
その帰りは思いのほか早くて、お帰りなさいって駆け寄った。
そのとき殺生丸さまの髪についていた、一片の白いもの。
それがこの花だ。
その日、殺生丸さまは何も言わなくて、邪見さまは刀が折れてしまったことで殺生丸さまのご機嫌が悪いんだとぼやいていた。
───だけどりんは・・・なんだかよく分からないんだけど・・・
そう、なんだか殺生丸さまは悲しそうで・・・
泣きそうな顔・・・ってわけじゃないんだけど・・・とにかくそんな顔をしていた。
それに気付いたらなんだかりんまで悲しくて、木に寄り添って目を瞑る殺生丸さまのところへ行った。
きっとりんがきたことには気付いてる。
それでも目を開くことはなかった。
ふと、殺生丸さまが軽く握る右手に白いものが見えた。
柔らかい風に少し揺れるそれは、純白の羽毛。
どこかで見た。
思い出そうと頭をひねっていたら、殺生丸さまは静かに目を開いてりんに右手を差し出した。
条件反射で受け取ったそれは、りんの手のひらを柔らかくかすめて転がった。
あぁそうだ。
これはあの人の───
「殺生丸さま、これ・・・」
「私には必要ない」
再び目を閉じた殺生丸さまは、それ以上何も言わなかったけれど、なんとなくりんにも分かることができた。
もういないんだ。あの人は。
二度と会うことはできない───
くつくつと胸がきしんだ。
殺生丸さまも今、この感覚に耐えているんだろう。
───何度か会いに来ていた。
空から見ていることもあった。
あの人の願いは、叶うのかな。
りんにはまだ分からないことばかりだけど
幸せであればいいと思う。
覚えある匂いが鼻を掠めた。
深く考えはしなかった。
ただ足がそちらに向いたまで。
一面の白。
むせ返るほど甘い花のにおい。
その中の、陰鬱とした瘴気の匂い―――
頭を垂れた体からは、波打つ瘴気が溢れていた。
一定の調べで溢れるそれと共に、心臓の脈内が聞こえた気がした。
「もういい」といった言葉を疑おうとは思わない。
向けられた笑顔の意味を解するつもりもない。
ただあるがままを受け取った。
「自由が欲しい」と言っていた。
空を舞う、幾数の白い羽。
初めて死が美しいと思った。
たとえどれほど穢れた瘴気に紛れようと
その一点の光を忘れはしない。
───りんは受け取った羽を、そっと手放した。
ひらりと地に落ちるように見せたそれは、身を翻して暮れかけた空へと舞い上がった。
徐々に高く昇る羽を、いつからか殺生丸も見上げていた。
───ここだったんだ。
殺生丸さまはここであの人とお別れを───
「行くぞ」
背後で殺生丸がきびすを返す気配がした。
慌てて後を追う。
無意識のうちに、軽く揺れている角ばった右手を握っていた。
細く堅いそれは小さく反応を示したが、りんを拒むことはなかった。
「・・・風に・・・なれたのかなぁ」
殺生丸は答える代わりに少し顔を上げて空を仰いだ。
風は甘い匂いを運んでいた。
───私は風だ。自由な風だ───
抱擁の時(殺左腕復活記念)
熱い。
内から滔々と溢れ出る何かを抑える術も知らず、私は前を見据えた。
かつて肉を裂き、血を吸い、私の一部としてあったものが、今再びこの身体にあるのだ。
痺れに似た懐かしい感覚が、左側から押し寄せてくる。
その指がしかと握るものから、異質なものは感じられない。
いわば、私そのものだった。
父の墓に残されたそれは、あの世とこの世の境で、主を嘲笑していたのだろうか。
半妖風情に腕を落とされおって
父の形見まで持って行かれ
哀れな、大妖よ
しかしそれも今は私とひとつになった。
自身の武器となるものを携えて。
それは私が、私の意思がもたらしたという。
父への憧憬
弟への悔恨
この執着から解き放たれたからこそ、爆砕牙はこの手に、この左手にあるのだ。
刀の柄に指の腹を擦らせた。
ざらついた触覚が神経を燻ぶる。
殺生丸は遠い静寂の中で眠る父に想いを馳せた。
薄暗く荒廃したかのような地で、父はその巨体を骨と化し、しかし毅然と屹立していた。
その体を前にして、これから遺品を預かりに行こうというのに、無意識に恐れをなした。
亡き者が生者に勝るはずもない。
死んでしまえばそれまで。
己を奮い立たせるようにして、父の腹へ、その牙がある地へ足を踏み入れた。
だが。
私に抗う光が、犬夜叉を受け入れた。
その光が焼いたのは我が右手のみだとしても、痛みは全身を貫いた。
この世はどこまでも不条理だ。
落とされた左腕を残して、私はそこを去った。
逆流する血が全身を駆け巡り、それに伴い滴る赤が我が軌跡を彩った。
必然と自負していたものが手に入らぬとき、それは何倍もの欲となり己を襲う。
私は幾度も牙を奪おうとした。
必要あらば何であろうと手を組んだ。
幾年もの時を共に過ごしてきた腰の刀には目もくれず。
「あさましく、愚かで強欲な」人間を忌み嫌って来たことは偽りではないにもかかわらず、その頃の私と人間の差は、僅かなものだっただろう。
その私を、天生牙は導いた。
甦る命は荒む心を包み、守った。
それが父の意思だと知ってもなお鉄砕牙への執着は捨てきれなかったものの、私は天生牙を育てることを決めた。
だがそれでも育まれた技、冥道残月破は犬夜叉のためのものだった。
――お前の親父はつくづく残酷なことを――
それほどまで、父上は犬夜叉を―――
奴が鉄砕牙を受け継いだことも、いつしか己の中で呑み込んでいた。
それもこの天生牙――冥道残月破が私に残されていたが故。
やはり私はあれの次なのか。
これほど濃い血を流しておきながら。
―――それでも父上――――
だからだろうか。
奈落の手の上を転がされるだけだとわかっていながら、神無の鏡を受け取った。
鉄砕牙の真の継承者。
それを見極めるべく、犬夜叉のもとへと足を運んだ。
大きく口を開ける冥道。
飲み込まれる身体。
眼下を意識を失った犬夜叉が流れてゆく。
その背からは瘴気の匂いがたちこめていた。
―――まだだ。
まだ、真にこれを受け継ぐものが決まってはおらぬ――
犬夜叉の背に刺さる金剛石を抜き、拳に焦燥を込めて殴った。
飲み込まれてしまえば、それまで。
助かる術など…
腰の刀が震った。
熱を持ち、わが身をどこかへ導かんとする。
――帰りたいのか
天生牙の意志を汲み取るかのように、柄に手をかけた。
鉄砕牙に奪われ――いや、戻った己が育んだ技を惜しいとは思わなかった。
半妖故に多くを託された弟。
父は我が強さを誇り、信じたうえで私にこれを残した。
――もう、父の痕は必要ない
私には、この爪と牙がある――
天生牙を置き去り発った。
――のち、それは小娘の手から我が手に渡るのだが。
腰の天生牙は以前のように静かだった。
りんの命を呼び戻し、自ずから手放したそれが再びりんの手からこの手に戻ったことが皮肉でもあるように思えた。
それほどの安堵が、この爆砕牙として現れた。
我が血となり肉となって、父の元から戻った我が腕と共に。
――親父殿の形見ではない、お前の刀だ――
父の背ばかりを追い続けたがために、自らの武器を手にすることが叶わなかった。
愚かだと思っていた。
人間の女などと関わり、半妖の子を成し、そんなもののために命を落とした父を。
死してなお父からの愛情を一身に受けている犬夜叉を。
そしてそれを憎く思う己が愚かだと。
それでも、爆砕牙を手にした今でも、父の後姿は脳裏に焼き付いて離れない。
目を閉じれば充満するかのように溢れだす、父の記憶―――
「…るさま、殺生丸さま!」
玲玲とした声に顔をあげた。
「ごめんなさい、眠ってた?」
りんが不安げに首をすくめた。
「…眠ってなどおらぬ」
それを聞いて、りんは少し微笑むと左に腰を下ろした。
「…何の用だ」
「ごめんなさい、何にもないの」
ここにいたいだけ、と笑った。
りんは手元に伸びていた殺生丸の純白の着物の袖を手に取り撫でた。
すでに我が物に触れられることに何の抵抗もない。
「殺生丸さまのお着物、綺麗だね」
「…」
「殺生丸さまが選んだの?」
「…父が選んだ」
りんは殺生丸の顔を覗き込むように屈んだ。
りんの匂いがふわりと舞った。
「殺生丸さまは殺生丸さまのおっとうがだいすきなんだね」
りんは再びさらりと着物を撫でた。
「殺生丸さまのおっとうも殺生丸さまのこと、だいすきだったんだね」
りんの言葉が、身体の中に落ちてくる。
淡々と蓄積するそれは、殺生丸に嘆息をもたらした。
そうだ。
私は、父は―――
左手を伸ばし、柔らかい髪を手のひらに滑らした。
黒髪は艶を放って指の間を通ってゆく。
りんは心地よさげに目を閉じた。
遺された力はなくとも、私には、父の抱擁の記憶があった。
≪抱擁の時:終≫
千里2
とりあえずどこにいけばいいんだろう・・・
りんはあてもなく山を降りていった。
降りていったら、人里があるよね・・・
そこでだれかにその妖怪のことを聞こう。
りんはそう思い立つと、足が少し軽くなった気がしてこぎみよく歩いていった。
夜は白み始め、山々の鳥は朝を祝ってさえずり始めた。
そうしてようやく、山を降りてりんは小高い丘の上から下を見下ろした。
あ、あそこ・・・人の村だ・・・
ようやく人里を見つけた安堵と、どこか懐かしい想いがりんの胸をくすぶった。
りんはそこを目指して再び歩を進めた。
人が行きかい、多くの旅人が寄る活気のいい村であった。
すでに朝市が開かれ、多くの人が市場に買いに出ている。
りんはそんな人の群れの中へ飛び込んで、誰に聞こうかと思案していた。
しかしこのような朝早い時間に、少女が、しかも薄汚れた格好でふらふらとしていたら誰もが目を留める。
買出しに出ていた村の女が思わずりんに声をかけた。
「あんた・・・見慣れない子だね。
一人でこんな時間にどうしたんだい?」
「えっ・・・あの・・・」
もとはりんが尋ねる人を探していたにもかかわらず、りんにとって殺生丸や邪見、またかごめたち以外の人間と話をするのは久しいことである。
りんはうまく伝えることができない。
「なんだって?」
「・・・あの・・・蝶々を、探してるの・・・」
女はいぶかしそうに首をかしげた。
通常なら、頭がおかしいのだろうとみなされてそこでほうって置かれるだろうが、もじもじと薄汚れた手をこすって何かを話そうとする少女がかわいらしく思えて、女は見放すことができなかった。
「・・・よくわかんないけど、なんかあるんだね。
とりあえず、うちにおいでよ。
そう金持ちじゃないからたいしたことはできないけど、お腹すいてないかい?」
あ、そういえば。
そっとお腹に手を当てると、空腹の腹がころころと動いていた。
「・・・すいた」
女はにっこりと笑って
「やっぱりね。
じゃあうちにおいで。
朝飯食って、話したいことがあれば話せばいい」
そう言ってりんの手をひいて女は家へと向かった。
・・・優しい人。
・・・おっかあみたいだ。
りんは暖かいその手を握り返した。
りんははじめはおずおずと出されたごはんを食べた。
こんなちゃんとしたごはんは久しぶりである。
りんが思わずそう言うと
「あんた、どこからきたんだい?」
と心配げに尋ねられた。
ぽつりぽつりと話し始めた。
その女の優しさにひかれて、口は思いのほかうまいように動いた。
もとより人と馴れ合うのは得意なほうである。
りんはいつのまにか、昔から知っている人のようにその女に話していた。
「それでね、殺生丸さまと邪見さまは眠ってて、りんがその妖怪を見つけるの。
・・・でも、どこにいるのかさっぱり分からないんだ・・・」
「ちょ、ちょっと待って。
さっきから、妖気とか、なんとかっていってるけど・・・もしかして、その"殺生丸さま"ってのは・・・妖怪かい?」
「そうだよ?」
りんは黒目がちな瞳をくりくりと動かして答えた。
女はしばし呆然とする。
──この子は、今まで妖怪と暮らしてたのか──
「ごはんどうもありがとう。
すごくおいしかった。
りん、もう行くね。
誰かほかに知っている人がいるかもしれない。
早くしないと、殺生丸さまも邪見さまも、どうなっちゃうかわからないもん・・・」
・・・あ、なんか泣きたくなってきた・・・
りんはぐっと奥歯を噛みしめて、上を向いた。
ぶんぶんと頭を振って水滴を吹き飛ばす。
「じゃぁね。
ありがとう!」
「・・・ちょっとお待ち!
・・ここより3里ほど西に行った村にね、妖怪退治やが一人住んでるって聞いたことがあるよ。
そいつなら何か知ってるかもしれない。
いってみてもいいんじゃないか?
あいにくあたしは仕事があってついていってやれないけど・・・」
「ありがとう!!
りん行ってみる!」
りんは顔全体に笑顔を広げて、元気よく西に向かって歩き出した。
ふと、思い出したように胸元に手を伸ばす。
──殺生丸さま
紐に頬をよせて、深く深呼吸した。
りん、頑張る!
お腹もいっぱいで俄然やる気も湧いてきたりんは、しっかり地を踏みしめて歩いていった。
まだ薄暗いあぜ道を一人歩くのは空恐ろしかったが、りんはひたすら歩き続けた。
ようやく丘の向こうに小さな里が見えた時には喜んだ。
ついてみると、そこは先ほどの村と打って変わった静かな村だった。
朝早いからか、人の姿も見えない。
水を打ったようにしんとした冷たさが、りんの身にしみる。
人、いないなぁ・・・
とりあえず里についたら退治屋を探そうと思っていたのに、村人もいないのでは話にならない。
とりあえずりんは歩を進めた。
すると、突然ばんっという何かがぶつかるような大きな音が近くで耳に届いた。
いや、扉が荒く開く音だった。
ついそちらに目をやると、その戸をくぐるようにして大男が小屋から現れた。
背丈は殺生丸よりも高く、ごつごつとした岩山のような腕は短い着物の裾から突き出ている。
男の大きな眼がりんをとらえた。
思わずりんは固まった。
とっさに”こわい”と思ったのに、逃げることも目をそらすことさえもできない。
立ち尽くすりんと男の間に、妙な沈黙が流れた。
ひゅっと男の目が細くなり、一に結ばれていた口元は横に大きく伸びた。
男はりんの背丈に合わせるようにしゃがみこんだ。
「なんや、嬢ちゃん見やん顔やなあ。こんな朝っぱらからどないしたんや?」
聞きなれない話し方の男に、りんはどぎまぎしながら答えた。
「えっと…りん、退治屋さんを探してて…」
男は大げさに両手を挙げた。
「あらま、なんやそりゃおらのこっちゃあ。妖怪退治でも頼みに来たんか?てか嬢ちゃん一人で珍しいなあ。
おら今から川に水汲みに行こ思とったとこやで、ほな一緒にいこか」
そう言ってりんの返事も聞かずにずんずん歩きだした。
りんは慌てて後に続いた。
その男は右足をかばうように、不格好な歩き方をしていた。
けが・・・してるのかな。
「ところで嬢ちゃん、あんたどっから来たんや?家族は?」
「えーっと…山?から来たっていうか…お家はないんだけど…」
殺生丸さまと邪見さまは、家族、なのかな…
「妖怪退治頼みに来たんなら悪いけど、おらはもうできへんのやわ。
見ての通りおらの足は思うように動かれへん。
妖怪退治屋は廃業してもうた」
「退治を頼みに来たんじゃないの。
聞きたいことがあって…ようすいちょう?って知ってる?」
男は川辺に膝をつき、水を汲んだ。
「よーすいちょ、ようすいちょう・・・あぁ、妖睡蝶な。昔っからおるて、聞いたことはあるけど見たことはないなあ。
その妖怪がなんなんや?
妖睡蝶は人間に害はないて聞いとんで」
「殺生丸さまが…殺生丸さまと邪見さまがその妖怪のせいで眠ってるの…だからりんが代わりに見つけようと思って…」
だんだんと語尾は小さくなり、しまいにはうつむいて着物の裾をぎゅっと握った。
「てなことは、なんや、そのせっしょまるさまとなんやらってのは、妖怪か?」
りんはこくんとうなずく。
「ほらまた、変わったお仲間さんなこって」
案外男はその事実に顔色を変えなかった。
少なからず驚いてはいたのだが。
「どこにいるか、知らない?」
「どこにおるかて、見たこともないしなぁ…
北の国に多いって、聞いたことはあんで」
「きた?」
「こっちの方角の、さむーいとこや」
男は一方向を指差して目を細めて言った。
しかしりんの顔は、日が差したように明るくなる。
「あっちにいったら、いるんだ!!
ありがとう!!行ってみる!」
今にも駆け出しそうなりんを男は慌ててとどめた。
その拍子にせっかく汲んだ水はこぼれる。
「ちょっちょっと待て!妖睡蝶がそっちにおるってあてなんてあらへんで!しかもお前さん、ひとりで捕まえるつもりか?虫とりやあらへんで」
「・・・りんにはできない?」
途端にりんの表情は崩れる。
「いやいや、わからへんけど、まあ人間には全く無害なわけやし。言っちゃあ虫とりと変わらへんのかもしれん。
けど、どこにおるかもわからへんのやで?どこまで北におるのかもわからん。おらはこの足やで手伝ってもやれん。できるか?」
りんに迷いはなかった。
「やれるよ。大丈夫!歩いて行くよ!」
男はぽりぽりと頭をかいた。
「…まぁ、止めへんけど」
どこまで行くつもりなんかいな、歩いて。
「ありがとう、教えてくれて。じゃぁね!」
りんは男に背を向けようとしたそのとき、後ろから強い風がりんの髪を吹きあげた。
振り向いた先には、黄色の目をした双頭の竜。
「阿吽!」
「うおっ、妖怪!」
すっかり忘れていた。
阿吽は邪見と冥加をさがしにいったきりいなかったのだった。
「阿吽今までどこにいたの?」
ぐるる。
「りんを探してくれてたの?」
ぐる。
「ありがとう!阿吽がいれば、歩いて行くより全然早いね!」
りんはその硬い鱗に頬を寄せた。
阿吽は気持ちよさそうに目をつむる。
「この妖怪は…嬢ちゃんのけ?」
「んー…りんのじゃないけど…いっつも一緒にいるよ!」
「ほお―…」
妖怪とおくびもせずに関わり、まさか共に暮らしておるとは…
奇怪な子や…
りんは慣れた手つきで阿吽に乗って、男に頭を下げた。
「ほんとにありがとう!脚、よくなるといいね。
じゃあね!」
ぶるっと身震いした二つの頭が空に向いた。
「おっ、ちょっと待て!気になっとたのに言うん忘れとったわ。
嬢ちゃん、なんか妖怪のもの持っとんのなら、捨てたほうがいいで。あんたからほんのちょ―っとやけど、妖気を感じる。
その妖怪とおんのはまあええし安心やろけど、妖気持つものもっとると雑魚妖怪寄ってくんで」
男は軽く眼を見開いてそう言った。
妖怪のもの…?
「りんそんなの持ってな…あっ!殺生丸さまの腰ひも…!」
りんは袂からひもを引っ張りだした。
「おおぉ、それやそれや。妖怪の持ち物やろ?」
「うん…お守りにしようと思って、勝手に持ってきちゃった…あ、阿吽、もしかしてこれでりんの居場所がわかったの?阿吽も殺生丸さま見たいに鼻が効くのかと思ったよ」
ぐるぐる、と肯定ともとれる唸りを挙げる。
「お守りっちゅーか、逆にそれ危ないわ」
「でも…殺生丸さまのだもん…」
勝手に持ってきておいて、危ないから勝手に手放すなんて、できないよ…
悪い妖怪が寄ってきても、持っていたい…阿吽もいるんだし…あれ、もしかして。
「ねぇ、これ持ってたら、りんの探すようすいちょう、も寄ってきてくれるかな!?」
「おぉ、確かに、妖睡蝶はそのせっしょまるさまの妖気を吸ったんやろ?なら蝶も惹かれてくるやろな。格好の餌やし」
一気にりんの顔に希望が広がった。
なんだかもう蝶が見つかったような気分だ。
「まあまあちょっと落ち着けや。
寄ってくる言うたって、他の雑魚も寄ってくるんやで危ないことには変わりないで。・・・もっとらんほうがええと思うけど」
男のりんを心配する気持ちはよく分かる。
しかしりんにはもうその考えを頭の隙に入れる暇さえなかった。
「・・・りん行くよ」
男は軽く息をついた。
「気いつけてな」
「うん!阿吽!!」
阿吽は再び身震いすると、土ぼこりを巻き上げて、空を見上げる男を残して飛び立った。
りんは小さくなっていく男に手を振り続けた。
男も一緒になって手を振る。
男はりんが見えなくなっても、1人と一頭が消えた方向を見つめ続けていた。
殺生丸さまの腰紐・・・殺生丸さまの妖力がついてるんだね・・・
やっぱり持ってきてよかった・・・
あ、でも邪見様が知ったら・・・
殺生丸さまのお召し物を勝手に持っていくなど・・・うんたらかんたら・・・
って言われるんだろうな・・・
りんは小言を言い続ける邪見を想像して、1人で小さく笑った。
阿吽の硬い背中をなでてみた。
「ねぇ、阿吽。きたって、わかる?」
ぐるる。
「わかんないよねぇ・・・りんもわかんないよ。退治やさんはこっちの方角って言ってたけど・・・何処まで行けばいいんだろう・・・」
りんが思案に暮れていると、阿吽が小さく揺れた。
「どうしたの?」
りんの問いに答えるように、阿吽は低く飛んでいった。
─────
「やっと村まで着いたぜ・・・」
腰を屈めて歩きすぎて、犬夜叉はくたくたになってへたりこんだ。
「にぎやかな村ね」
そこはりんが一番初めにたどり着いた村。
朝と変わらず人でにぎわっていた。
「しかし出発してからだいぶ経ってしもうたぞ。もうりんはいないのではないか?」
「かもしれないわね・・・」
「おっ妖怪だ!」
「うわあ妖怪!」
「変な着物だ・・・」
かごめたちに向けて、さまざまな声があがる。
「村の人たちにりんちゃんのこと聞こうと思ってたけど・・・聞きにくいわね」
「・・・りんちゃん・・・?
あんたたち、りんって子を探してるのかい?」
かごめたちに声をかけたのは、朝りんが出会ったあの女だった。
「りんちゃんを知ってるの!?」
「あぁ、明け方に小さい女の子がふらふらしてたから、思わず声をかけたんだよ。そしたらなんか妖怪を探してるとか突飛なことを言い出すから何かと思ってね、話を聞いたんだ」
「で、りんは今どこにおるんじゃ!?」
女は村のはずれに続く道を指差した。
「あっちの方角の村に退治やがいるから、そいつに聞いてみたらいいんじゃないかって言ったら喜んでそっち行ったよ」
かごめと七宝は顔を見合わせた。
また出直しである。
「じゃありんちゃん、もうここにはいないのかあ・・・」
「あんたたち、あの子の連れかい?」
「・・・というか、成り行き上そういうことに・・・」
あいまいな返事をするかごめに女はいぶかしがったが、特に気にも留めなかったようで温和な顔に戻った。
「あの子は、強いいい子だね。
そのぶん心配だよ。守ってやってね」
女はそういってまた忙しそうに立ち去った。
かごめたちは言われたとおり、次の村へと歩を進めた。
──―――
「阿吽?」
阿吽が行き着いた先は、小さな蓮華畑だった。
「うわあ・・・!すごい!!綺麗だね、阿吽!りんをここに連れてきてくれたの?」
それだけじゃないんだといわんばかりに、阿吽は鼻先をある方向へむけた。
りんがそちらに目をやると、蓮華の花の一角にたくさんの蝶が舞っていた。
「あ!蝶々!」
りんがそちらへ駆け寄ると、蝶たちは一斉に砂をまいたように散らばった。
「あーあ・・・
阿吽、蝶々は蝶々でも、妖怪の蝶々なんだよ。
阿吽も見た?邪見さまと殺生丸さまについていた、黄色と赤の・・・」
りんの視線が一点で止まった。
一面濃い桃色と緑の世界に浮かぶ、白や黄の蝶たち。
その中でちらちらと見える、赤がある。
それは、黄色の羽に赤の斑点を持った蝶だった。
「あれだ!!」
りんは駆け出した。
蝶はうねるように舞い、徐々に徐々にりんとの間を広くしていく。
咲き乱れる蓮華はりんが起こした風で小さく揺れていた。
しかしその距離は縮まらない。
切れる息を抑えながら、りんはいぶかしがった。
――本当に…あれが、本物…?
なんだか、りんが進むのと一緒に遠くに言っちゃうみたい――
りんの素足にあぜ道の小石が容赦なく突き刺さり、ぽつりぽつりと雨跡のような赤が道に残されていく。
痛みに耐えて食いしばる歯は鈍い音を立て、降り続けた腕は空を切るばかりで思うようには進まない。
(――蝶の格好の餌やろな――)
突如、退治屋の男の言葉が脳裏をよぎった。
…そうだっ!殺生丸さまの…!
りんはおもむろに袂に手を入れて、ひもを引っ張りだした。
口からこぼれる呼吸を飲み込んで、立ち止まった。
酸素を求める肺はきゅっと縮まったようで、喉からはひゅーひゅーと音がする。
りんは紐を数回重ねて結び、小さくまとめた。
寒くもないのに指先はかじかんで、何度か失敗した。
――殺生丸さま、ごめんなさい…!――
えい、と前方近くを舞う蝶に向かって大きく腕を振りかぶって力いっぱい紐を投げた。
小さな塊は、りんから十数歩離れた地点にだらしなく落ちた。
蝶からは程遠い。
りんは来た道を少し引き返し、さらに離れた所から蝶を見つめた。
妖睡蝶は紐に近づくことも離れることもない。
もしかしたら妖怪ではなく普通の蝶なのではないかと疑い始めた頃、少しずつではあるが、蝶が紐に向かって飛んできた。
というよりもふわふわと流されるように近づいてきている。
りんは紐ににじり寄った。
蝶はすでに紐の上を踊っている。
りんは蝶から数歩離れた所から、勢いづけて両手を伸ばし、獲物を捕らえる猫のように蝶に飛びかかった。
手のひらに羽根が触れる感覚があった。
両手でそれを包みこみ、指の間からそっと覗くと、ちゃんと手の中に蝶はおさまっていた。
「…やったあ…!!」
ついに捕まえた、妖怪。
まだそう北へも進んでいないのにこんなところで見つけられるなんて。
阿吽のおかげだ。
「早く殺生丸さまのところへ戻らなきゃ!蝶々…ずっと手で持ってなきゃいけないのかな」
そんな心配をするものの、やはり蝶を得られた喜びはずっと大きく、思わず顔がほころぶ。
そのとき、手元で何かが着火するような低い音がした。
「えっ!?」
慌てて手の中を覗き込むと、蝶が自分の手の影の中にいたはずが、そこは青く光っている。
思わず手を開いた。
その光は炎のようにあやしく揺れて宙に浮き、また炎のようにどんどん小さくなってやがて消えてしまった。
りんの小さな手に包まれていた蝶も一緒に。
いましがた柔らかな羽が触れていた自分の手のひらを見つめ続けた。
…今さっきまで、ここにいたのに。
燃えて…死んだの?
…違う。逃げたんだ。
(――ただの虫とりとはちゃうんやで――)
再びあの男の声が響いた。
相手は幾年も生きた妖怪――
…せっかく捕まえたのに。
この手に触れたのに。
殺生丸さまのところに…帰れると思ったのに。
知らず知らずのうちに、頬を流れるものがあった。
それに気づいて、慌てて頬をこすった。
しかし後から後からあふれてくる。
りんはぬぐうことをあきらめて、声も出さずに座りこんで涙した。
もっと言葉を知っていたら、自分のふがいなさに罵声を浴びせるところだった。
しかし思いつく言葉もないので、ただ黙っていた。
――どれくらいそこにいただろう。
持ち前の明るさは性分である。
ぐいと涙を拭きとると、音を鳴らして頬をたたいた。
よしっ
心配そうに近寄ってきた阿吽の首元をやさしくなでて、阿吽に乗って飛び立った。
さっきみたいにしたら捕まえられることがわかったんだ。
次はどうやって逃げられないようにできるのか、考えなくちゃ…
そうしているうちに、いつのまにか日は高くのぼり、りんの黒髪は熱されてじんじんする。
ついでに目元もぼうっとしてきた。
早朝歩き続け、先ほど思いっきり走ったためか、いつの間にかりんは意識を手放していた。
日が顔を隠し始めた頃、珊瑚たちは刀々斎の洞窟からすでに遥か北へと進んでいた。
しかしもとよりどこという目的もない。
雲母の鼻と刀々斎に聞いた妖睡蝶の外観のみが手がかりである。
そのあまりの頼りなさに、珊瑚と弥勒の口数も減りつつあった。
「日が…くれてきましたな」
「うん…暗くなったら余計にわからないよ」
「初めから行き先も定まっていませんし…無謀と言えば無謀ですけどね」
その時、雲母が小さく揺れた。
「雲母?」
雲母の鼻の先には、赤い空に小さな点が浮いている。
「あれは…」
近付くにつれて、それは背中に何かを乗せているのが見えた。
「あれは殺生丸の連れている竜ではありませんか?」
その竜はすでに雲母たちに気付いているのだろう、誘うように低く飛び始めた。
雲母もそれに続く。
「竜の背に乗っているのは…りんではありませんか?」
「えっ…」
二人の脳裏に最悪の事態がよぎる。
「雲母、急いで!」
雲母と二人は地に降りた。
阿吽は向かい合うように凛と立っている。
その背には、やはりりんを乗せていた。
二人が駆け寄ると、りんは小さく寝がえりをうった。
阿吽の背中から落ちぬよう上手にうつ伏せになる。
弥勒と珊瑚は安堵のため息をこぼした。
「おまえは賢いですな」
弥勒は阿吽の首元をさすった。
阿吽が気持ちよさそうに低く唸る。
その声にりんが小さく動いた。
「…あれ、りん寝ちゃって…
あ…!弥勒様、珊瑚様!」
「りん、怪我はない?」
「うん、りん元気だよ!」
「どうして突然一人で出て行ってしまったのです?」
りんは少し俯いた。
「殺生丸さまと邪見さまについた妖怪…捕まえなきゃって、思って…」
「一人でなんて無謀だよ」
りんは激しくかぶりを振った。
「でも!りんは自分でその妖怪見たんだもん!
それに、殺生丸さまと邪見さまとずっと一緒にいたのに…りんだけ元気なんて…
だからりんがその妖怪を見つけたいの!」
弥勒と珊瑚は顔を見合わせた。
弥勒はりんの方に手を置き、やさしく言った。
「わかりました。しかし一人では到底危険です。私たちとともに行きましょう」
りんは少しだけ首を傾けてうなずいた。
すでに星々が顔をのぞかせ、空には薄く雲が張っていた。
とりあえず3人は今宵泊まるところを探すことにした。
知らない土地でむやみに散策するのは危険だという珊瑚の意見だった。
「ねぇ弥勒様、珊瑚様。
りんね、一度妖怪捕まえたんだよ」
「えっ!?」
弥勒と珊瑚は声を重ねて驚愕の声をあげる。
「りん、殺生丸さまの御着物の腰ひも持って来ちゃったの。
お守りにしようと思って…
途中であった退治屋さんがね、これは妖怪をおびき出すから危険だけど、逆に妖睡蝶も寄ってくるんだって」
りんは腰紐を弥勒の手に渡した。
「強い妖気…これは、殺生丸の?」
りんはうなずいた。
「それでね、妖睡蝶を阿吽が見つけたの。
殺生丸さまの腰ひもでおびき寄せて、りんが手で捕まえたの」
珊瑚は目を丸くした。
妖怪を素手で捕るなんて。
「嬉しくって、すぐに殺生丸さまたちのところに帰ろうと思ったんだけど…突然蝶が燃えていなくなっちゃったの…」
りんはまた思い出して目じりが下がった。
「だから捕まえても…また逃げられちゃうかも」
弥勒が得意げに笑った。
「もう大丈夫ですよ。
珊瑚が笹で妖睡蝶を入れる虫籠を作ってくれました。
それに私の護符を貼れば、妖怪は逃げられません」
りんの顔は期待に輝いた。
…なんて心強いんだろう。
3人は手ごろな荒れた寺社を見つけ、そこで一晩を明かした。
翌朝、りんはまたさらに北へと飛ぶのだと思っていた。
しかし珊瑚はなかなかそんなそぶりを見せない。
「あの…珊瑚様?
今日も北に行くのじゃないの?」
「うん、昨日りんが妖睡蝶を捕まえたって聞いてね、あんまりまだ遠くに入ってないんじゃないかと思うんだ。
だから今日はこの辺で、妖睡蝶を呼ぶ香を焚くよ。
りんが持っている殺生丸の腰紐…貸してくれる?」
りんは一瞬それが香を燃やす芯にされるのかと思った。
そんなりんのそぶりを珊瑚はすぐに解した。
「別に燃やすわけじゃないよ。これを…」
そう言って香を乗せた皿の下に紐を巻いておいた。
「こうすれば殺生丸の妖気が香の匂いと一緒に届くだろ。
大丈夫、これは蝶にしかわからない匂いだから、他の妖怪は殺生丸の妖気にも気付かないよ」
珊瑚はその皿を森の中にある開け放たれた場所に置いた。
「しばらくここで待とう」
珊瑚の言葉通り、3人はその場に座り込んだ。
「蝶々、来るかな」
「近くにいれば…
ところでりん、聞いてもよいですか?
…お前は、人里に戻る気はないのですか?」
突然の弥勒の質問に戸惑った。
何度かそれを聞かれたこともあったが、近頃はもう人里にも近づかぬほど殺生丸たちと近しくなっていた。
「うん、だって人の村には殺生丸さまはいないでしょう?」
「それは…もちろん、そうでしょうね」
「じゃあ戻らない」
りんはきっぱりと言い放った。
「…しかし、りん、お前は人間だ。いつまでも殺生丸といられるわけではない」
りんの黒い瞳は大きく揺れた。
「なんで!?なんでいられないの!?」
そんなりんを見て、珊瑚が仲介に入った。
「法師様、もうやめなよ」
「いえ、珊瑚、このままではりんは人ではなくなります。
りん、分かっていますか?
殺生丸がお前をどこまでも連れて行く保証はどこにもない。
お前が殺生丸も邪見も慕っているのはよくわかる。
しかし突然手を放されたら、お前は一人で歩けますか?
私たちが、その時そばにいるとは限らないでしょう。
お前はそれでも殺生丸のそばにいつまでもいられると思いますか?
…人の命はあまりにも短い」
「法師様!!」
弥勒は続ける。
「りん、よく考えてください。
私も、お前と殺生丸が幸せなら、共にいればよいと思う…
しかし、分かっていると思うが、殺生丸が生きるほんの少しの時間しか、私たちは生きられない。りん、お前もだ。
…残される殺生丸の気持ちを、考えたことはありますか?」
りんは黙って、弥勒のその言葉を咀嚼していた。
――人の命は、短い――
――殺生丸が生きるほんの少しの時間しか――
――残された殺生丸の――
弥勒はりんの頭に大きな掌を乗せた。
「…今言うべきではなかったかもしれません。
しかしいずれは突き当たる場所です」
わかっている。
りんもそれは重々承知していた。
弥勒の手の重みは、りんの頭から全身に伝わった。
…温かい…
その時、珊瑚が小さく声をあげた。
「あっ…!法師様!!」
珊瑚が指さす方向には、ひらひらと香の方向に舞う妖睡蝶。
「…来ましたね」
「これからどうするの?」
蝶は香のまわりを数回旋回していた。
まるで酔っているみたいだとりんは思った。
すると、蝶は突然ぱたりと羽を閉じて地に落ちてしまった。
「あれ?」
りんが驚きの声をあげる。
珊瑚が蝶に近づいても、蝶は少しも逃げようとせず、地に横たわっている。
「この香には少ししびれ薬が入っているんだ。
それが効いてきたんだろう」
「さすがですね」
珊瑚は妖睡蝶を笹籠に入れると、弥勒はそれに封印の護符を貼った。
「…やりましたね」
りんはくるくると目を回している。
「なんだかあっけないみたい」
弥勒と珊瑚は笑った。
「りん、お前がいたからできたことですよ」
弥勒はりんの髪をくしゃりとなでた。
「急いで刀々斎の洞窟に戻ろう」
3人は再び阿吽と雲母の背に乗り、来た道を引き返した。
「あ」
その途中、珊瑚が小さく声を漏らした。
「なんです?」
「犬夜叉たちって、りんを探しに行ったんじゃなかったけ」
ぽんと弥勒が手を打った。
「ああ、そうでしたね。
私たちが先にりんを見つけてしまいました」
「刀々斎の洞窟についたら雲母に探しに行かせよう」
3人は長く空を飛んだ。
―――
その日の朝、やっと犬夜叉の朔の日が終わり、犬夜叉の鼻が効き始めていた。
「ちくっしょ~、やっと終わったぜ」
「これでりんちゃんを探しに行けるね」
3人はりんが退治屋に会った村で一晩明かしていた。
「だけど…りんの匂い、ここで途切れてるぜ」
そこはりんが阿吽に乗って飛び立った川辺。
「それに、この匂い…殺生丸が連れてる妖怪だ」
「それはあの二つ頭の竜のことか?」
「ああ」
「ってことは、りんちゃんその妖怪に乗ってどこか飛んで行っちゃったってこと?」
「そうだろうな」
また深いため息が3人を覆った。
「これじゃもう追い手がねぇじゃねぇか」
「一度刀々斎のおじいさんの洞窟に戻らない?
珊瑚ちゃんたちが戻ってるかも…」
「けっ。こんな早く捕まえられるわけねぇだろ」
「だけど私たちが行く当てないじゃない」
犬夜叉は頭をかいた。
「しょうがねぇな、戻るか」
3人は再び来た道を戻り始めた。
弥勒たちと犬夜叉たちが刀々斎の洞窟に着くのは同時だった。
「あ!弥勒様、珊瑚ちゃん!
それに、りんちゃんも!」
「りんも妖睡蝶も見つけましたよ」
弥勒は蝶が入った笹籠を揺らした。
「おぉっ!捕まえられたんじゃな!」
七宝は嬉しそうに籠を覗き込んだ。
一行は洞窟の中に入る。
相変わらずそこには一昨日の晩となんら変わらず横たわる殺生丸と邪見がいた。
「おぉ、おめえら戻ったのか。
で、妖怪は」
弥勒が籠を刀々斎に手渡した。
「…ふーん。こいつはまたあ、どえらいもんの妖気を吸っちまったなあ」
りんは殺生丸の手に紐を返した。
「ごめんね、殺生丸さま。
勝手に紐持って行って…でももう大丈夫だよ」
「それで、殺生丸たちにどうやって妖気を戻すんでぇ」
「それは知らん」
「なっ…」
犬夜叉は目をむいた。
「おまえよくそうもいけしゃあしゃあと…」
「だって知らんもーん。おい、冥加、お前しらんのか」
冥加が刀々斎の髭から顔を出した。
「うーん、おそらく、殺生丸さまたちのその模様、それが本体とつながっているのでしょうから…」
なるほど、と犬夜叉は笹籠に手を突っ込もうとした。
「待ちなさい!
犬夜叉、お前まで妖力を吸われますよ」
危ない、というように犬夜叉は手をひっこめた。
弥勒が代わりに蝶を取り出し、その翅の模様を殺生丸につけられた模様と重ねた。
そこから青白い光があふれだす。
それが殺生丸の妖気だとだれもが感じた。
しかしそれはまばゆい光を放ち、散るようにふたたび蝶へと戻ってしまう。
「…どういうことだ?」
くすくすと、高く楽しげな笑い声が聞こえた。
洞窟に反響しているように、周囲どこからも聞こえる。
突然、弥勒の手の中にあった蝶は赤く輝き、弥勒の手から離れると一行の前に大きくなって現れた。
それは黒く光沢のある衣装をまとった女だった。
女は卑しげに笑う。
「愚かな。
もう遅いわ」
犬夜叉が腰の鉄砕牙に手をかける。
「てめぇ、何て言った?」
女はさも楽しいとでも言うように高笑いする。
「気づいておらぬか?
その二匹の妖怪、息をしておらぬぞ」
「なっ…」
かごめが急いで殺生丸の胸に耳を押し付けた。
鼓動は、聞こえない。
「い…犬夜叉…心臓、動いてない…」
高く女は笑う。
「妖気を搾り取るだけ取ってしまった。
眠っているのなら心臓も止まるわ。
心臓が止まってしまえば、妖気が入る器もないも同然。
わらわはもう残り少ない命、殺したければ殺せ。
だがどうにしろ、その二匹の息は戻らん」
女は再び大きく笑うと、蝶の姿に戻った。
「ちっ」
犬夜叉は荒く蝶を掴むと、笹籠に蝶を戻した。
「そ…そんな…」
かごめたちはうろたえるほかはない。
「おい!じじい!
何か方法はねぇのか!?」
刀々斎も困ったように耳をかく。
「って言ってもなあ。
妖睡蝶がそう言ってんだから、そうなんだろ」
犬夜叉は奥歯を噛んだ。
――こんな終わり方なんて。
「り…りんちゃん…?」
皆の視線がりんに注がれる。
りんは呆然自失として殺生丸と邪見を眺めていた。
「殺生、丸、さま…?…邪見さま…」
りんは静かに横たわる二人に歩み寄った。
殺生丸の大きな手をとる。
その手は無情にも冷たい。
思わず「死」というものに触れた気がして、りんの中に冷たいものが流れ込んだ。
「殺生丸さま…起きて。起きてよ。
りん蝶々捕まえたよ。
ねぇっ、起きて!」
りんの声だけが洞窟に響く。
かごめたちはりんを見つめるほかなかった。
「…りん、」
犬夜叉が思わずりんに声をかける。
そのとき、りんの目に入ったのは、殺生丸の横に一緒に横たえてあるもの――
「…天生牙」
りんは迷わずそれを手に取り、鞘から抜いた。
殺生丸は片手でたやすくそれを扱うが、りんには大きくて思わずよろつく。
己の非力さを思い知った。
「…お願い…殺生丸さまと邪見さまをたすけて…」
刀々斎が首を振る。
「無駄だ。そいつは殺生丸にしか扱えねぇ。
ましてや人間なんぞに使える代物じゃねぇ」
…そんな、殺生丸さまはこの刀でりんの命を呼びもどしてくれたのに。
自分の命は戻せない、なんて。
りんの手からからりと天生牙が滑り落ちた。
落ちた天生牙は何かとぶつかり思いのほか大きな音を出した。
りんがそれに視線を落とすと、次は動物のような速さでそれを手に取った。
「おまっ…!
何する気だ!」
りんは闘鬼刃の刃を己の首に向けていた。
犬夜叉は慌ててそれをりんの手から振り落とす。
一瞬りんの首を掠めた刃は、りんの鎖骨上あたりを斜めに切った。
りんの首筋に薄く血がにじむ。
りんはそのままへたりこんだ。
「…殺生丸さまが、いないなら…
りんは生きてても死んでても一緒…」
その眼に光はない。
「馬鹿なことを言うんじゃねぇっ!
お前、殺生丸に助けてもらったんだろ!?
無駄にすんなっ!!」
犬夜叉が息を切って怒鳴るが、その声はすでにりんの耳には届かない。
りんは自分の手で耳をふさいだ。
…もう何も聞きたくない、何も見たくない…
りんも早く殺生丸さまたちのところに行きたい…
思い出していた、遠く昔のこと。
今と同じ感覚。
死んでいるのか、生きているのか分からない。
ただ同じ日々の繰り返し。
聞こえるのは罵倒。
見えるのは冷笑。
そこから救い出してくれた大きく温かな手。
それを握り返すことだけが生きる糧だった。
取り戻した声も、命も、この人だけに捧げよう。
そう思っていたのに。
待っているのは、死。
――もうりんには何もない…
心が奥底まで沈んでいく感覚。
…あのときみたい…
おっとうやおっかあ、にいちゃんたちが死んだ、あの時…
喉元がきゅってすぼまって、口からこぼれるのは北風がなるような音ばかり。
ああ、りんの声、またどこかに…
ひゅーひゅーと、北風が吹きぬける細い音だけが洞窟に響く。
それがりんの息の音だと気づくのに、一向は時間を要した。
「・・・りん?りん!息できる!?」
珊瑚が異変に気づき、りんの肩を抱く。
りんは掴まれた肩を荒く振り、首を振った。
「声が・・・でないんだね」
かごめたちが息を呑んだ。
「以前も、声がでなかったって・・・」
違う、違うよ。かごめ様。
でないんじゃない。
もうださないの。
この声が行き着く場所はもうなくなってしまったから。
どんなに叫んでも、届かないってわかったから。
だからりんにはもう、声は必要ないの──
りんは無造作に黒髪を横に垂らし、殺生丸の手のひらを凝視していた。
「・・・私たちは出ましょう・・・」
弥勒に押されて、一行と刀々斎は洞窟から去っていった。
りんはもうそのことにも気づかなかった。
・・・耳も、聞こえなければいいのに・・・
そんな思いと反して、自分の呼吸の音も、外で鳴く鳥のさえずりも、この胸の鼓動さえも聞こえる。
りんは殺生丸の右腕に手を伸ばした。
その腕には、斜めに二本、紫の線が走っていた。
・・・綺麗な色。
殺生丸さまの、ほっぺの模様も。
眠り続ける殺生丸の頬は、りんに視線を投げかけているときとなんら変わらず、白い。
りんは硬い岩の地面にたなびく銀の髪を手に取った。
束で目の前に持ってくると、その髪にはうっすらと自分の輪郭が浮かんだ。
・・・りん、何やってんだろう・・・
悲しいのかな、今。
ううん、悲しくなんかない。
――寒いよ、殺生丸さま。
―――
洞窟の外では、犬夜叉たちは黙りこくって岩場に腰掛けていた。
誰も口を開こうとはしない。
七宝がすすり泣く音だけが聞こえていた。
「泣くな、七宝」
犬夜叉がなだめるが、ますます激しく七宝は鼻をすする。
「じゃが、りんは、りんはどうするんじゃ!?
殺生丸がおらんくなっては、りんがあまりにかわいそうじゃろ!」
「りんは、私たちが連れて行って楓さまの村にでも預けましょう・・・」
それが一番だ、と誰もがわかっていた。
しかし、それだけでは割り切れない部分が多くあった。
突然、刀々斎がぽんと手を打った。
皆が刀々斎のほうへ顔を向ける。
「犬夜叉、鉄砕牙を抜け」
「は?なんでだよ」
「・・・竜麟の鉄砕牙・・・それで、蝶を切れ。
蝶からは殺生丸の妖気が溢れ出す。
それをお前の鉄砕牙で吸え。
それを殺生丸に戻すんだよ。
そうすりゃあ、もしかすっと・・・」
「でも、おじいさん。妖睡蝶はもう殺生丸の妖気は入らないって・・・」
刀々斎はうなずいた。
「ああ、確かに。
だが、その鉄砕牙と天生牙は同じ者の牙からできてる。
その鉄砕牙から妖気を戻せば、殺生丸の天生牙が反応するかも知れねぇ」
一斉に全員が立ち上がった。
「やってみるしかねぇな」
犬夜叉たちは洞窟に足を踏み入れた。
洞窟の中では、先ほど犬夜叉たちが去ったときと一寸も動いていないりんがいた。
「りん、どいてろ。
殺生丸、助かるかもしんねぇ」
りんがゆっくりとうつろな目を犬夜叉に向けた。
少し開いた口からは乾いた音だけが聞こえる。
弥勒が笹籠を持った。
「犬夜叉、いきますよ」
「おうっ」
弥勒が蝶を掴み犬夜叉の前に投げ出した。
「竜麟の鉄砕牙!!」
鉄砕牙は青く輝き、その刃には幾つもの鱗が張っている。
犬夜叉はその小さな的を的確に斬りつけた。
先ほどと同じ、まばゆい光があたり一面に広がり、犬夜叉の顔を白く照らす。
その光は音を立てて鉄砕牙に吸われていく。
どこかで、女の断末魔の叫びが聞こえた。
蝶は妖気を吸われつくし、黒い塵となって風に舞った。
妖気を帯びた鉄砕牙は青白く輝いている。
「くっ・・・」
・・・ものすごい妖気だ。
手が・・・焼けるように熱い・・・!
犬夜叉は鉄砕牙を握りなおした。
横たわる殺生丸に向き直る。
その横に投げ出された天生牙は、光る鉄砕牙に同調するように同じ青い光を放っている。
「主のところへ戻れ・・・!」
妖気は光の束となって鉄砕牙から放たれ、それは殺生丸と邪見を纏った。
天生牙が共鳴する。
二人を包む妖気の光は徐々に徐々に弱くなり、やがて消えた。
静まり返った洞窟に、犬夜叉の荒い息遣いだけが響いた。
あまりの静かさが痛いくらい。
ざら、と地面がこすれる音がした。
横たわる大妖の指がその地をこすっていた。
皆の口から安堵の吐息がこぼれた。
殺生丸と邪見は、ほぼ同時に目を開いた。
途端に犬夜叉は崩れるようにして地面にひざをつき、かがまった。
「犬夜叉!?」
己の手のひらを覗き込んでみる。
それは無残にも莫大な妖力の熱で赤黒く焼け爛れていた。
小さく舌打ちをする。
――おれはこいつにはまだまだってことか
犬夜叉は痛みを食いしばって鉄砕牙を鞘に収めた。
殺生丸は軽く己の頭を振って起き上がった。
なんだ、この感覚・・・
同様に邪見も上体を起こし、ぱちくりと目を見開いてきょとんとしている。
周囲を見回すと、ひざをついてこちらを見る弟と、安堵の顔をした人間共。
ここは・・・
「・・・よかった、殺生丸。ほんとうに・・・」
かごめは犬夜叉を支えて洞窟の外へと歩き出した。
それにつづいて刀々斎から弥勒、珊瑚と皆が出て行く。
まだ状況が飲み込めない。
ああ、私はつまらん妖怪がどうとか・・・
ふと思い出して唯一一本ある右腕に視線をおろした。
いつぞやの奇怪な模様はなくなっている。
・・・助けられた、ということか。
複雑な思いでため息を漏らすと、突然腹部に鈍い痛みが走った。
小さな何かが腹にぶつかった。
邪見が瞠目して小さくうめいた。
市松模様の少女は、ただその広い胸板を小さなこぶしでたたいた。
声を出すのも惜しいというように、無言で殺生丸の胸をたたき続けた。
「りん」
少女は止まらない。
「りん」
振り上げたこぶしをずるずるとおろし、殺生丸のひざの上に小さく座った。
「・・・りん」
いつも以上に小さくなったように思えるそれは、突然爆発したかのような声を上げた。
りんの肩へと伸びていた手が思わず止まった。
少女は主の名を叫び、慟哭していた。
殺生丸の着物にその水滴が浸透し、冷たくなってもそれは止まらなかった。
どれほど経ってからか、その声は徐々にかすれ、やがてすすり泣きに変わった。
殺生丸はその間、ただ泣き叫ぶりんに触れることもできず眺めているより他はなかった。
「・・・りん・・・顔を上げろ」
少女はふるふると首を振る。
もどかしくて、その小さなあごを持って己の視線とぶつけた。
漆黒の瞳は涙の幕を纏い、鼻も頬も真っ赤になっている。
「・・・悪かった」
無意識にこぼれたその言葉に、少女は再び大妖の胸に顔を埋め、小さく声を漏らしたかと思うと、一定の呼吸音を奏でだした。
あからさまなため息をつき、後ろに右腕をつく。
邪見はひたすら無言を守って主と少女を見守っていた。
あたりが暗くなり始め、殺生丸は眠った少女を抱き上げて外へ出た。
少し遠くに火が爆ぜている。
犬夜叉たちが火を炊いているのだろうと察しがついた。
らしくないとわかっていても、足はそちらへ動いていた。
銀の妖怪がふらりと現れ、かごめたちはそれに抱かれた少女を見て笑みを漏らした。
「泣き疲れて眠っちゃったのね」
殺生丸は無言で一行を眺めた。
犬夜叉はふいと顔を背ける。
「けっ、余計なお世話だとでも言いに来たのかよ」
険のある犬夜叉の言葉をもろともせず、殺生丸は表情を崩さなかった。
「・・・世話になった」
それだけ言い残し、大妖はちょこまかと動く邪見を連れて夜の闇にまぎれてしまった。
「・・・お礼、だよね」
「・・・そうでしょう」
「雪が降るぜ」
「もうっ、犬夜叉!」
犬夜叉たち一行にも、どこか暖かなものが流れていた。
りんは目覚めてしばらく、口を利かなかった。
利けなかったのではない。
邪見と話しているところは見た。
・・・私とだけ、口を利かんつもりらしい。
めずらしく反抗的な態度に、そもそもの自分の非を認めた殺生丸は、ただりんの機嫌が直るのを待つしかなかった。
しかしそれもやはり一時のことで、りんは気まずそうに、そして嬉しそうに、遠くを眺める大妖の足にぴったりとくっついた。
つと視線をおろすと、頬を赤らめて眩しそうにこちらを見上げるりんがいた。
「ねぇ殺生丸さま。眠っている間、どんな感じだった?」
「覚えておらぬ」
死の経験ならお前もあるだろう、とは言わなかったが。
りんはつまらないと声をあげ、それきり殺生丸にぴったり寄り添ったまま黙っていた。
「生きているほうって、つらいね」
殺生丸は視線をおろした。
りんはただまっすぐを見据えていた。
・・・父母兄のこと、自分のことを考えているのだとわかった。
「・・・残されるほうが、つらいんだね」
りんは弥勒のあの言葉を反芻していた。
あまり遠くない昔、一番大切な人たちを失くしたときの悲しみを忘れていたわけではないのに、どうして考えられなかったんだろう。
りんが死んだら、殺生丸さまとはいられない。
それだけじゃないのに。
「記憶が・・・あればよい」
殺生丸の言葉に、りんは顔を上げた。
金の双眸は真摯にりんを見つめていた。
「・・・りんの?」
「・・・」
私はお前を置き去りにしてばかりだ。
たまには逆もよい。
「・・・夢を見ていた」
唐突に切り出された言葉に、りんは首をかしげる。
「・・・眠っているとき?」
小さくうなずいたきり、殺生丸はそれ以上話そうとはしなかった。
それで?とせがむりんの声を、その旋律を目を閉じて噛みしめていた。
あのとき。
暗い闇に身体ひとつ放り込まれた気分だった。
何一つ、自分にはないのだと思い知らされた。
あれは、目が覚める直前だっただろうか。
初めて"生"というものを見つけたような。
りん、お前の声が聞こえた――
無駄に長いわりに内容が薄い…
これまた初期作品です;;