霞み立つ花
繭のように白く光る着物を丁寧に畳み、装飾の少ない上品な木の香りのする箪笥へとりんはそれを静かにしまった。
この白無垢を眺めるだけで、あのときの胸を突くような思いが波のように押し寄せる。
沈んだ気持ちのときはそれを覆い被して忘れさせ、動揺がりんを不安にさせるときには穏やかに包んでくれた。
しかしそれまでりんを揺さぶっていた得体の知れない不安は、着物を片し終わった途端またぶり返してきた。
堪えるように目を閉じると、侍女たちの不安げな、そしてどこか心苦しそうな顔が脳裏に浮かんだ。
無邪気に喜ぶりんに遠慮するような、そんな浮かない表情だった。
「殺生丸さまにも、早く……」
一人呟いた言葉は襖のあいだを抜けるように、春の空気へと溶けていった。
昼間は殺生丸の邪魔をしないようにと、りんが殺生丸と相見ることは少なかった。
しかし邪見によると、今日は殺生丸の仕事がひと段落着いたらしい。
ならば今日しかないと意気込んで、りんはざわめく胸を押さえて殺生丸の自室へと向かった。
渡りを歩くと、庭は美しく剪定された木々が林立し、中でも一際目立っているのはやはり咲き誇る桃色である。
いつだったか数年前の今日のような日に、殺生丸と邪見と、それに阿吽も、皆でそろってあれより大きな桜の下で休んだことがあった。
りんは思わず口角を上げた。
桜はすでに散り際で、付し注ぐ花びらを捕まえようと苦闘するりんを眺める殺生丸に花弁はどんどん積もっていって、りんがはたと気づいた頃には殺生丸の銀髪や肩のあちこちが桜に埋もれていた。
桃色に埋まった殺生丸をりんが笑うと、殺生丸は眉をひそめた。
─────花見の時節など終わっておるというのに…
小さく笑みをこぼすと、ますます懐かしさが胸をついた。
気づけばすでに殺生丸の部屋の前。
静かに声をかけると、穏やかな低い声が是と言った。
「殺生丸さま、お暇ある?…あのね…」
空の青が覗かないほど枝を広げ重なり合う大木は、日の光を川の小石のように反射させて薄桃色に輝いていた。
ふたりはどこへともなくその下を歩いた。
───殺生丸さま、お花見に連れて行ってほしいの──
近頃は珍しくなった昼間のりんからの誘いに、殺生丸は支度しろと答えた。
殺生丸がりんを連れてきたのは少し森を抜けた桜の群林。
何を言うでもなくその中を歩いていたが、突如殺生丸が足をとめた。
「何か言いたいことがあるのではないか」
話すことも忘れて桜に見惚れていたりんは慌てて思い出し、呑気な自分を叱咤した。
「…あ、あのね…」
いざ言葉に紡ごうとするとなぜか喉がつかえる。
金の瞳がりんの言葉を待っている。
吐きだすようにゆっくりと言った・
「殺生丸さま、…いまでも半妖は嫌い…?」
りんの真摯な瞳に殺生丸は少したじろいだ。
「何を突然」
「…殺生丸さまの御子が授かったの…」
りんは俯いて、静かに腹部に手を当てた。
そこに自分以外の何かがある実感なんてなかったけれど、そうせずにはいられなかった。
春の風景にはにつかわしくない、滞った空気が沈黙と共に流れる。
顔を上げることができなかった。
「……り」
「推古と宋耶がね、おめでとうございますって!
りんのお腹が大きくなっちゃうから、ゆるいお着物を用意してくれるっていってたの!」
「りん」
「お腹の子のお着物はりんが作ろうと思ってね。邪見さまに綺麗な布を用意してもらわなくちゃ。
あ、でもまだ赤ん坊が女の子か男の」 「りん!」
かすかに震えた明るい声は、殺生丸が珍しく荒げた声で不自然にしぼんでいった。
「……りん」
顔を上げると、いつもの端正な顔はあまりに予想通りの表情だった。
りんは着物の裾を堅く握り締めた。
「他の侍女たちも殺生丸さまとおんなじ顔してた……
どうして喜んでくれないの!?
お子が・・・殺生丸さまとりんのお子ができたんだよ!?
半妖だから!?生まれてくる子供が半妖だから嫌なの!?」
「そうではない」
息を切らしてまくし立てた。
変わって殺生丸はひどく弱々しげだった。
「そのようなこと取るに足りぬ」
「だったら」
「犬夜叉の母が何故死んだか知っておるのか」
突然の義弟の何、りんは疑問符を浮かべた。
「犬夜叉さまの・・・母上?」
自分と同じ立場にあった人の存在を、りんは初めて思った。
「あれの母は犬夜叉を生んだがために死んだ」
「え」
「半妖といえど、わが父の血を継いでいる。並みの妖力ではない。
それがあやつの母を殺した」
殺生丸の言わんとしていることを、りんはやっと汲み取った。
つまりはりんもそうなるということ。
子のお腹にある殺生丸の邪気がりんを蝕むなど、考えにも及ばなかった。
しかしそれを知った後でも、りんの瞳は揺るがない。
「……だったら殺生丸さまはどうしろっていうの?」
そう自ら聞いたのに、耳に手を当ててしゃがみこんでしまいたかった。
殺生丸の答えはあまりに簡単で、当然だったから。
「子は諦めろ」
淡白な言葉が風のように全身を貫いた気がした。
殺生丸の姿も、一枚の膜を通してみているようだった。
「だったら、だったらどうして」
「子をなさぬようにと薬師に頼んだ薬を食事に含ませていた」
目を逸らしたままそう言う殺生丸は、りんの目に起こられた子供のように小さく見えた。
自分の知らないところでそのような所作が為されていたことに怒るべきなのか、そうまでして愛を示してくれたことを喜べばいいのか、絡まった糸のように思考は上手く動いてくれなかった。
「殺せって言うの?」
「まだ生まれたわけではなかろう。薬師がそのための薬を持って」
殺生丸の胸板に小さな衝撃が走った。
りんの小さな拳が何度もそこを叩いた。
「でも生きてる!りんにもまだ分からないけど確かにここにいるの!
殺すなんてできないよ!どうして産んじゃいけないの!?」
「半妖が生まれてきて、どのように生きていかねばならぬかわかっておるのか。人とも妖とも交えない血を持つことになる。 生まれてきて後悔させることになっても」
「じゃあ犬夜叉さまは生まれてきて後悔してるって言うの!?
この子だってかごめ様みたいな人に出会うかもしれない!」
「お前は犬夜叉の幼少を知らぬからだ。人には忌み嫌われ、妖には蔑まれる」
「りんがこの子を守るもの!」
「そのお前が死ぬというておるのだ!!」
荒くなった低い声にりんは怯んだが、それでも瞳の強さは変わらない。
「人の子とは異なるのだぞ」
「わかってる」
「並みの妖気ではあるまい」
「わかってる」
「子と相交えて死ぬというのか!!」
「それでもいい!!」
ぺちんと気の抜けた音があたりに響いた。
りんの頬の柔らかな弾力が殺生丸の手の甲から全身を貫いた。
痛みと言うほどでもない刺激が頬を伝い、一瞬見えた殺生丸の顔は歪んでいた。
殺生丸は半ば寄りかかるようにりんに腕を回した。
「子など・・・」
「殺生丸さま?」
「子などいらぬ……」
肩越しに伝わるほんのかすかな震えは、確かに殺生丸のものだった。
───あぁ、殺生丸さまはわかってる。りんがもう決めたこと───
「・・・ごめんなさい、ありがとう、殺生丸さま」
りんは静かに腕を回し、絹糸のような銀の髪をすいた。
「馬鹿者が・・・」
りんは静かに涙した。
あれから五日、りんが再びあの場所へ行きたいと言い出した。
あの日帰ってきて邪見にもろもろのことを告げると、邪見は号泣し(鬱陶しいことこの上ない)、自ら市へと子に必要な品を買いにいったりしている。
りんはこの屋敷の古株に出産についての知識を叩き込まれたりと慌しい数日を送っていたが、何を思ったか再び連れて行けと言い出した。
連れまわしていいものかと案じたが、そう言うとりんは
「丈夫な子を産むためにはりんも動かなくちゃ!」
と一歩も引かなかった。
結局りんを連れて再び飛んだ。
桜はすでに散りすぎているほど落ちていて、どこを歩いても地面には花弁がちりばめられていた。
草が桃色に変わったようだと喜んで、りんは持参した布を広げてその場に座った。
「二人で来る最後のお花見だね」
りんの背後に腰を下ろすと、りんは桜の木々を見上げながら呟いた。
訝しげな顔をした私を振り返り、嬉々として付け加えた。
「来年は三人だもの」
強い春風が花弁と髪を巻き上げた。
吹き上がった花弁で一瞬りんの背が視界から消えたとき、強い衝動が己の胸を突き上げた。
あの日、この場所から帰ってきたその夜、閨でりんに尋ねた。
なぜそうも子が欲しいのか。
以前からそうなればと思っていたとりんは言った。
───この子がいれば、りんがいなくても殺生丸さまは一人じゃないでしょう?───
あたかもすばらしい考えだといわんばかりにりんは笑ったが、りんが寝入った後もその言葉は脳裏にしつこく焦げ付いたまま離れなかった。
今のこの衝動は、そのときと似ていると、そう思った。
残酷なほど頼りない。あっけない。
りんがその事実を厭わないことが何より怖かった。
その肩に手を伸ばすと、容易くりんの温もりに触れた。
これさえ繋ぎとめることはできないのだという現実が胸をつぶした。
そのまま細いからだを引き寄せて白の首筋に顔を埋めると、光る黒髪が頬を撫でた。
「・・・よい香がする」
そう呟くと、りんがくすぐったそうに笑った振動がかすかに伝わり、ひんやりとした指が腕に触れた。
幾度の季節がめぐろうと、この瞬間を忘れはしない。
たとえ脳が退化しても、何度も何度も反芻して身体に刻み込む。
それは朽ちても朽ちても新芽を息吹く、桜のように。
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うわあぁぁぁ
嬉しさのあまり のたうちまわっています。
私の妄想の一場面がこんな素敵なお話に!!
私の想像をはるかにこえて
二人のせつなさがつたわってきて
ただただ感激です。
私の宝物です。
ありがとう!!!!
- poko
- 2010/07/05(Mon)21:57:14
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