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いつしか咲かなむ


 

いつもの、芳しい匂い───

それに混じった、意に介さぬ匂い

 


「さっきね、蜜柑の木があったから実を取ろうと思ったんだけど、手が届かなくて…そしたらね、近くの村の男の子がとってくれたの!」


ずいと橙の果実が小さな手から差し出された。


「まだ青いんだけど…はい!殺生丸さまの!」


強く黄色い香りが煩いそれは、殺生丸の眉間に刻まれた皺をさらに深くした。


「いらん」


もともと殺生丸が口にするという期待は薄かったのだろう。
りんはすぐに諦めて、堅い皮をむくことに精を出し始めた。

 


「…それはなんだ」


殺生丸の視線の先にあるのは、りんの黒髪。
いや、そこに浅く刺さった、薄紫の花弁の集まり。


「これ?その男の子がね、川辺に咲いていたからってりんのために摘んでくれたの!
髪にさしたら可愛いよ、って。
殺生丸さま、これ何ていうお花?」


頬を染める少女は、いつもなら殺生丸の心に温かいものを流し込む。
しかしこのときばかりは、その花の香りも、りんに薄くついた人間の匂いも、しみるような黄色い香りも、殺生丸の奥を燻ぶる。

 

──あやめ。

そう呟き、りんの髪を彩る花を手に取った。

「あ」


取っちゃうの?とでも言うような顔で、殺生丸とその花を見上げた。

 

───ただの植物に、なぜそうも慈愛を注ぐ。

愚かだとわかっている。
だが。

 

ぴくりとも動かぬ顔のまま、妖の鋭利な爪の先は嫌な音を立てた。
それはりんが息をのむ暇すらなく、小さな花を塵に変えた。

それは風に乗って二人の間を通り過ぎた。


「…な…なん、で…」

「…くだらん」


 


言うべき言葉はそうではない。
そうではない。
そうではない。


お前に、そんな顔をしてほしいのではない。

 

「…りんには…似合わない…から…?」


殺生丸は視線をりんの足元に下げたまま、答えない。

りんの腕の先には、蜜柑を握りしめたこぶしが震えていた。
 





「殺生丸さまー!邪見は帰りましたぞー!
…ん?りん、お前何泣きそうな顔しておるんじゃ。腹でも壊したか?」

 

使いから帰ってきた邪見が、りんの顔を覗き込む。

主と少女の間に流れる不穏な空気を、さすがに鈍感な邪見も汲み取った。



…こりゃまたあ、りんが何かしたな…


 

「こりゃっりん!また殺生丸さまのお手を煩わせたのか!?まったく…ぐへっ」


続く言葉は上から降ってきた殺生丸の足の圧力で言葉にはならなかった。

 

 


殺生丸は顔をあげ、りんを見た。
りんは震えるこぶしを抑え、蜜柑を握りしめて同じように殺生丸の足元を見ていた。

 

「…せっ…折角、くれたのに…」


「花ならほかにいくらでもある」
 

「お花、かわいそうだよ…」
 

「…摘んでしまえば同じこと」
 

「…でも、あれは、りんのために摘んでもらって…」
 

「…」


一言一言言葉を紡ぐたび、落ちそうになる涙をこらえるのに懸命すぎて、震える体を抑えることはできなかった。



「…ひ、ひどいよ…」

水滴がりんの俯いたまぶたの上に薄く浮かんでいた。

毒を注いだこの指で、それを拭うことはできない────

 

 

 

「~~っ!!殺生丸さまのばかっ!!」

 

殺生丸の足の下で、邪見が目をむいた。

「ぬなっ……!!」


ぼとりとその場に蜜柑を落とすと、りんは林の中の道なきところへと走り去った。


「こりゃっ!りーーーん!!」


邪見はようやく殺生丸の足元から自由になると、りんを追おうと短い足で駆け出そうとした。
が、思いとどまって己の主をそっと振り返る。

殺生丸は先ほどのりんのように、りんがいた場所を呆けたように眺めていた。


「あの~…殺生丸さま…りんのやつ…どういたしましょう?」


「…放っておけ」

「はあ…」


しかたなく邪見はりんが走り去った方向に目をやった。

 

…なにがあったんじゃろか…
こーんなしょぼくれた殺生丸様…わしはこのかた初めてお目にかかった…

…おそらくまたこの憂さ晴らしにわしが足蹴にされるのじゃろう…


はあああ~と恨みがましい溜息をついた邪見を、殺生丸はやはり鬱陶しそうに蹴り飛ばした。

 





長い間走り続けた。
どちらに向かっているのかもわからない。

心臓が悲鳴をあげ、足が棒になる。
仕方なく立ち止まった。

 

来た道を振り返った。



鬱蒼とした木々が茂るばかりで、もちろん殺生丸たちの姿は見えない。

 

 


───りんは、なんてことを。


後悔が駆け巡ったが、言い訳なんて思いつかない。
そもそもなぜ主があんなことをしたのかわからないから。

 


これ以上殺生丸たちから離れようとは思わなかったが、いまさら戻ることもできず、りんは息をついてその場に座り込んだ。

 


どれくらいそうしていたのだろう。
目の前を通り過ぎる蟻を眺めたり、流れていく雲を目で追ったりしているうちに、あたりは赤い世界に包まれていった。

 

 

…あれ、もう日暮れだ…
りん、どれくらいここにいたんだろう…

…殺生丸さま、迎えに来てくれないんだね…

 


 


…帰ろう。
ごめんなさいって言おう。

 


そう思い立ち、立ち上がって来た道を振り返った。


…あれ?
りん、こっちから来たっけ?
こっちだったっけ?

 

がむしゃらに走ってきたため、自分がどの方向から来たのか分からない。

 

ど、どうしよう…帰れない…


どっちの方角も、同じような木ばかりで、皆目分からない。


「こっち…かな?」


声に出してみたら少し現実味を帯びた。

うん、こっちだな!
暗くなる前に…急がなきゃ。


りんは早歩きで進んだ。

 

しかし進めど進めど同じ景色ばかり。
一向に先ほどの場所まで戻れない。
日はすでに沈もうとしていて薄暗い。


少し肌寒くなってきた。

 

急がなきゃ、急がなきゃ…


しかし進めば進むほど鬱蒼とした木々はりんに覆いかぶさる。

辺りはもう暗闇に包まれている。

 


ついに恐怖が声となった。

「殺生丸さま!邪見さま~!!」









「あのぉ~、殺生丸さま?
そろそろ日も暮れてまいりましたし…りんを、探しに行かれては…」


森の中の開けた場所に腰をおろしていた殺生丸は、邪見に言われずともりんを探していた。

しかし、見つからない。

原因は、あの、柑橘。


りんが向かったほうは、おそらく蜜柑の木が茂っているのだろう。
その匂いと、りんの着物についた蜜柑のにおいがたち混じって、りん本来のにおいを隠す。

 

殺生丸は小さく舌打ちした。

 


しかしそのとき、殺生丸の耳に届いた、か細い声。

 

「…りん」


突然立ち上がり空に飛び上がった主に、邪見はなすすべもなく、主が消えた方向を見上げていた。

「殺生丸さま…また邪見は置いてけぼりですか…?」

 

 

 

―――――

「痛っ」

枯れ枝に腕を引っかけてしまった。

浅く傷ついただけなのに、りんの柔らかい肌は裂かれて細く血の筋が腕に通った。


もうあたりは真っ暗だ。
風の音も、鳥の羽ばたきも、すべてやたらと恐ろしく感じられる。

 

りん…もう帰れないのかな…
殺生丸さま…探しに来てくれないもんね…


「…殺生丸さま…」

呼んでみた。
ただ愛しさが募るばかりだった。

 

しかし止まっていても寒いだけ。
りんは歩き続けていた。

何の気なしに、一歩踏み出した。
俯いて歩いていたため、前方が空を切っていたのに気付かなかった。

踏み出した足が付く場所はない。


崖だと気付いた時には、りんの身体はすべて地から離れていた。

 

一気に自分の体重がのしかかる。
その身体がはるか下へ引かれるよりも早く、何かにわき腹を抱えられていた。


何か、など、りんには考える必要もなかった。
 

 

「殺生丸さま!」


殺生丸はりんを小脇に抱えるようにして地に下りた。


なんとなく顔を合わせづらく、りんは俯いた。

・・・謝らなきゃ、って思ってたのに。


「・・・あのっ・・・殺生丸さまっ」


「・・・腕をどうした」


殺生丸の視線はりんの血が滴る腕に注がれている。


「あ、忘れてた・・・さっき、枯れ枝に引っ掛けちゃって・・・」

殺生丸は片膝をついてりんの腕を取り、傷口を眺めた。

「痛むか」

「・・・ちょっと」


殺生丸は手に取ったりんの腕を、そのまま口元まで運んだ。


「っ・・・!」

腕を横切り手首まで流れた血を、殺生丸の生暖かい舌が丁寧に拭う。

「・・・せ・・・・殺生丸さま・・・」


少しざらついた舌が傷口に触れたとき、りんの肩はぴくりとはねた。


綺麗に血を拭い去った後も、殺生丸はりんの手を放そうとはしなかった。
りんの手の甲を己の唇に押し当てた。

 

 

 

くだらないのは、愚かなのはどちらだ。
紛れもなく、私のほうではないか。

 

怖かった、恐ろしかったのだ。
りんの血の匂いが届いたその瞬間から。

 

 


「あの・・・殺生丸さま、ごめんなさい・・・」


それでもやはり、私はお前に謝らせてしまう。
お前の無垢に腹を立て、お前の素直さに救われる。

 

「・・・行くぞ」

殺生丸はりんの手を引いてりんを抱き寄せ、半分肩に担ぐように抱き上げて宙に浮いた。

 

 


どこにも行くな
とはまだ、言えぬ。

それならば
もう二度とこのぬくもりを離さない



 

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  • 2011/02/19(Sat)14:44:19
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