指先に愛をのせる
消失の捕獲
姫は月を見上げる。
蒼く笑う月は、徐々に徐々に、姫の記憶を食んでいた。
りんが熱を出した。この城に来てしばらくはよくあったことだったが、近頃はそれも少なく、よって久しいことだった。
殺生丸の広い掌がりんの額に乗せられると、りんは全自動式に微笑んだが、熱は引かなかった。
「ただの風邪だが・・・いかんせん熱が高い。薬も効かんじゃ手の施しようがない。娘の体力次第だ」
緑色をした皺の多い薬師はそう言い切ったが、殺生丸の眉間の皺は一本たりとも消えない。
「なんとかしろ」
「・・・だから今言っただろうが。手の施しようがない。いいもんでも食わせるんだな」
これ以上殺生丸の激昂に触れてたまるかと言うように、薬師は手早く荷物をまとめ城を発ってしまった。
「・・・せ、殺生丸さま、何かりんの食事を・・・」
「楓に聞いてこい」
「はいぃっ!」
邪見はすぐさま阿吽に飛び乗り、一目散に楓の村へと向かった。
正直ここ数日苦しんでいるのはりんではなく我々従者なのではないかと、邪見は思っている。殺生丸の無言の威圧感、覇気はひりひりと他の妖怪を刺激する。
「・・・まったく、たまらんわ」
一人ごちた邪見は、ぐんぐんと人里へと近づいて行った。
りんの眠る部屋の襖を開けると、ちょうど推古がりんの汗を拭いているところだった。
殺生丸が無言でそこに立っていると、推古は苦笑しつつその手を早める。手早くその行為を終えた推古は、推古を通り過ぎりんへと歩み寄っている殺生丸を呼びとめた。
眉根を寄せて振り返る主を部屋の外へと連れ出す。
「なんだ」
「・・・りんさまですが、その、私のあやふやな人間の知識でありますが」
「はっきり言え」
「・・・人間と言うのは、高い熱が続くとどうもさまざまな器官に異常をきたすようでして」
「・・・」
「たとえば、耳が聞こえなくなったり、すこし記憶が…飛んでしまったり」
この城にりんとすみつき、幾年もの月日が流れた。その期間、常にりんを己の元に置き絶大な力によって庇護してきたつもりだ。現にりんがこの城に来てからこれといった危機にあったことなどない。
だがこの城、己が護るべき範疇にありながら、いやだからこそ人間のことをわかる者などいないここにりんを置いて今のような危機にさらしていては、本末転倒ではないか。
「…どうすれば、よい」
「…私もこう申し上げておきながら、解決策もわかりません。薬師の言うとおり、りんさまの体力次第なのでしょう。…ただ、りんさまが望むことがひとつ」
問うように視線を動かすと、推古は柔らかに笑った。
「お傍にいてあげて下さいませ」
推古はそれだけ言うと、殺生丸の強い視線をしっかりと受け止め、それから滑らかにりんがいる部屋へと視線を移すと、殺生丸に小さく頭を下げその場を立ち去った。
殺生丸はと言うと、無力な自分の掌が役に立つのならば、とりんの部屋の襖に手をかけたのだった。
七日後、りんの熱は無事引いた。
邪見がかごめと楓に伝授された薬草をかき集めたからか、それとも殺生丸が職務中以外常につきっきりでいたからか。
なにはともあれ、りんは身体を起こせるほどに回復した。
「・・・欲しいものはないか」
「・・・ない、よ。殺生丸さまがいるから」
わかっているくせにとでも言うように笑うりんは病の欠片もなく、案じていた身体の異常もないようである。
ふっと安堵の息を吐いたそのとき、次にりんが零したひとことに殺生丸は息をつめた。
「・・・ねぇ殺生丸さま、ここどこだっけ?楓さまのおうちじゃないよね」
すごく立派なところみたい、と言いながらぐるりとあたりを見回す。一方殺生丸は、食い入るようにりんを見つめた。
返事のしない殺生丸に再び視線を戻したりんは、固まったままのそのひとに首をかしげる。
「…殺生丸さま?」
「…ここがわからんのか」
「・・・う、ん・・・え、でも旅の途中でりんがまた熱出しちゃって、ここに寄ってくれたんだよね?」
りんの言葉一つ一つに、頭がついて行かない。
殺生丸はゆっくりと口を開いた。
「…退治屋と法師の、子供を知っているか」
「…珊瑚さまと、弥勒さまの?子供?え、いたの!?」
「…かごめが、戻ってきた。犬夜叉と一緒になった」
「…どこから戻ってきたの?」
「…りん、お前は私の后だ」
「・・・え?」
*
「記憶障害ですな」
ぼんやりと薬師と殺生丸の顔を交互に見やるりんを傍目に、薬師は淡々と告げた。
「高熱が続き、中枢器官に異常をきたしたんだろう」
「はやく治せ」
眉を眇めた殺生丸をちらりと目の端に捉えた薬師は、わざとらしく息をついた。
「治せんよ」
「…」
「こればっかりはどうにもできん。人間の薬師であろうと無理な話だ。自然に思い出すのを待てばよかろう。何かきっかけがあるかもしれんしな。なに、すべてを忘れたわけではあるまい。ここの場所がわからんだけなんだろう」
いそいそと荷物をまとめる薬師に殺生丸は返す言葉もない。
お手上げと言われてしまえばそれまでだ。自分にできることもないのだから。
「せ、殺生丸さまっ」
焦ったような声とともに殺生丸の白く澄んだ着物の裾が軽く引かれる。
「りん大丈夫だよ、全然おかしな感じしないんだもん。きっとすぐ思い出すよ」
にこりと目を細めて微笑まれてしまっては、殺生丸も二の句が継げない。
何よりここ数週間見られなかった笑顔が見れたのだ、よしとしよう。
「…今日は一日休んでいろ」
冷えた指先がりんの頬を撫で、殺生丸は腰をあげた。
りんの言うとおり生活に支障があるわけでもない、そのうち思い出すだろうと、そのときは思っていたのだ。
*
「・・・りんは」
「今は東の縁側に座っております」
こうこうと輝く月夜に反して、邪見の顔は暗い。
主の顔にも影が落ちていた。
りんの状態は良くならなかった。むしろ、悪くなる一方で。
りんは日に日に記憶を失っていった。
熱が引き意識を取り戻したあの日、りんはこの屋敷に来た時分のことを忘れていた。
その数日後、りんは草履を履くことを忘れた。
そしてそのまた数日後、りんは殺生丸に奈落を追わなくていいのかと尋ねた。
りんの記憶は日を増すごとに蝕まれていた。
まるで見えない何かがりんに住み着いて記憶を食んでいるようで、空恐ろしい。
そして大妖が何よりも恐れることがあった。誰にも口にしてはいなかったが、従者の誰もが感じていた。
「りん」
縁側に腰掛け、何を考えているのか月を見上げて白く光る横顔に声をかける。
ゆっくりと首が回り、りんの面がこちらを向いた。そしてゆるりとほほ笑む。
「殺生丸さま」
その薄い唇の隙間から己の名前が紡がれるたびに、殺生丸はひどく安堵した。
そしてそのたびに思った。
まだ大丈夫だ。いやそもそもりんが私を忘れることなどありはしない、あってたまるか、と。
しかしそれはただの自尊で、侵食は止まらなかった。
*
近頃朝餉をりんに運ぶのは邪見の仕事となっていた。
他の従者たちは毎朝りんに会うたびにきょとんとされることに耐えきれず、邪見に託したのだ。
「りん、起きておるか」
襖を小さく開け顔を覗かせる。布団を片している途中のりんがゆっくりとそちらを向いた。
「今日は天気がいいからの、布団を干すのもいいかもしれんぞ」
そういいながらりんの膳を用意する邪見は、ふと視線を感じて顔をあげた。
邪見が部屋に踏み入った際からりんの動きが止まっている。
「・・・りん?」
「・・・?」
ぽとりとりんの箸を落とした邪見は、りんの問いに答えることなく涙を散らしながら主の元まで駆けだした。
「せせせせ殺生丸さま・・・!」
「煩い」
「り、りりりんが、わしのことを…!」
そこでようやく殺生丸は顔をあげた。筆を机に置くとかたりと乾いた音がする。
ついにきた、と思った。
むせび泣く邪見の傍らを通り過ぎ、殺生丸はりんの部屋へと足を運んだ。
「りん」
開いたままの障子の奥で、りんはつくねんと座っていた。
その言葉に促されるようにしてこちらを向いたりんの顔からはなんの表情も読み取れず、確信した。
ゆっくりと座り込むその身体に近づく。
「私が、わかるか」
小さな頭がゆっくりと振られた。
「…名前を言ってみろ」
再び頭が横に振られる。
歯がゆい思いを押さえつつ、殺生丸はゆっくりと口を動かした。
「お前は話せる。声が出る。言ってみろ」
ちいさな口がおぼつかなく開いた。
「…り…りん…」
そう言ってから自分の声が出ることに驚いたかのように目を丸くしたりんは、ぱっと喉を押さえた。
そうしてから、りんは素早く顔をあげ、殺生丸をその瞳に捉えた。
「…ありがとう…!」
にこりと、花咲くほどの笑顔で、りんは笑った。
声が出るようになったのが殺生丸のおかげだと思ったらしく、笑いながら幾度もありがとうと口にした。
歯を噛み締めると、ぎっと鈍い音がした。
細く伸びた腕を掴み引き寄せる。わっと素っ頓狂な声がりんから漏れた。
りんだ、これはりんだ。
たとえ私のことを忘れても、何一つ消えてしまったとしても。
抱き寄せた腰の細さも黒髪から溢れ出る香りも鈴のように鳴る声も、そして何よりも笑った顔が、りん以外の何物でもない。
それでいいと思った。
りんは変わらん。私が変わらぬように、りんも変わらん。
忘れてしまったのならばこれからその穴を埋めていけばいい。
「・・・あ、あの・・・」
おずおずと腕の中で声をあげたりんを引きはがし、顔を覗く。
少しの焦りが滲んだその瞳は濁ることなく澄んでいて、やはりりんだと再び思う。
「腹が減っていないか」
「…お腹…?減った…」
近くに用意されたままの膳を引き寄せた。
「お前のだ、りん」
そう言うと、いいのかと問うように殺生丸の顔を覗き込む。軽く頷いてやると、また嬉しそうに破顔した。
*
諦め、とはまた違うが、りんの病に殺生丸が自分の中で決着をつけたその日のうちに、りんの病にも決着がついた。
それは殺生丸が、りんの熱が引いたら渡そうと前々から準備してあった着物を手渡したときだった。
りんは初め嬉しそうに、しかしすこしの申し訳なさを滲ませながら着物を受け取った。
「ありがとう殺生丸さま!」
こちらを見上げてにこりと笑ったりんは、そう言ってからあれ、と首をかしげた。
手渡した殺生丸のほうも、目を丸めた。
今日一日、りんが己のことを忘れてから、殺生丸はまだ名乗っていなかったのだ。
りんも今自分が口をついた言葉に疑問符を浮かべている。
「…あれ、今なんて…せ、っしょうまる、さま?」
自然と口にした言葉の意味がわからずただただ二人は向かい合ってお互いを見つめた。
「…思い出したのか」
「…あ、れー?」
首をかしげる様子を見て、どうもそういうわけではないらしい。
しかし確かに今、りんは己の名を口にした。
「せっしょうまる、さま。せっしょうまるさま」
確かめるように何度もその言葉を紡ぎ、りんは再び首をかしげながら殺生丸を見上げた。
「なんだか口が勝手に覚えてるみたい」
変なの、と呟きながらりんは自身の唇に指をあてがった。
殺生丸は、ふつふつと湧き上がる感情が促すままにりんの口元にある白い手を掴んだ。
身体が、覚えていた。
頭が忘れようと、りんの身体には己が刻み込まれていたのだ。
その事実が、どうしようもなく殺生丸を突き動かした。どうやらこの感情は喜びと言うらしい。
掴んだ白い手をそのままに腰をかがめ、先程までりんの指先が触れていたそこに自分の唇をあてがう。
たがいに目を開いたまま、至近距離で視線が交わった。
りんは唇が触れた瞬間さらに大きく眼を見開き、それからぎゅっと瞼を閉じた。
いつもの癖だ。口づける時、りんは必ず何かに堪えるように目を固く閉ざす。
やわらかく唇が離れた。
「…殺生丸さま、」
「…りん」
今度はしっかりと、大妖の名を呼んだ。
思い出したのか、と言ってみると、なにを?と問われた。
そこへ突如飛び込んできた小さな緑色の塊。
「りーん!!山奥深くに住まうという仙人から物忘れの薬を賜ってきたぞ!これを飲めばお前も」
「あ、邪見さま」
何事もなく呟かれたその言葉に、邪見の顎がかくっと堕ちた。
そしてふるふると震えだす。
「…お、思い出したのか…!?」
「だから何を?」
忘れていたことをすでに忘れたらしいりんは、不思議そうに殺生丸と邪見を交互に見遣り、ふふっと声を出して笑った。
「ふたりとも変なお顔」
邪見は蹲るようにして喜びにむせび泣き、殺生丸は少し顔をしかめてりんの頭をくしゃりと撫でる。
りんは肩をすくめて、くすぐったそうに笑った。
霞み立つ花
繭のように白く光る着物を丁寧に畳み、装飾の少ない上品な木の香りのする箪笥へとりんはそれを静かにしまった。
この白無垢を眺めるだけで、あのときの胸を突くような思いが波のように押し寄せる。
沈んだ気持ちのときはそれを覆い被して忘れさせ、動揺がりんを不安にさせるときには穏やかに包んでくれた。
しかしそれまでりんを揺さぶっていた得体の知れない不安は、着物を片し終わった途端またぶり返してきた。
堪えるように目を閉じると、侍女たちの不安げな、そしてどこか心苦しそうな顔が脳裏に浮かんだ。
無邪気に喜ぶりんに遠慮するような、そんな浮かない表情だった。
「殺生丸さまにも、早く……」
一人呟いた言葉は襖のあいだを抜けるように、春の空気へと溶けていった。
昼間は殺生丸の邪魔をしないようにと、りんが殺生丸と相見ることは少なかった。
しかし邪見によると、今日は殺生丸の仕事がひと段落着いたらしい。
ならば今日しかないと意気込んで、りんはざわめく胸を押さえて殺生丸の自室へと向かった。
渡りを歩くと、庭は美しく剪定された木々が林立し、中でも一際目立っているのはやはり咲き誇る桃色である。
いつだったか数年前の今日のような日に、殺生丸と邪見と、それに阿吽も、皆でそろってあれより大きな桜の下で休んだことがあった。
りんは思わず口角を上げた。
桜はすでに散り際で、付し注ぐ花びらを捕まえようと苦闘するりんを眺める殺生丸に花弁はどんどん積もっていって、りんがはたと気づいた頃には殺生丸の銀髪や肩のあちこちが桜に埋もれていた。
桃色に埋まった殺生丸をりんが笑うと、殺生丸は眉をひそめた。
─────花見の時節など終わっておるというのに…
小さく笑みをこぼすと、ますます懐かしさが胸をついた。
気づけばすでに殺生丸の部屋の前。
静かに声をかけると、穏やかな低い声が是と言った。
「殺生丸さま、お暇ある?…あのね…」
空の青が覗かないほど枝を広げ重なり合う大木は、日の光を川の小石のように反射させて薄桃色に輝いていた。
ふたりはどこへともなくその下を歩いた。
───殺生丸さま、お花見に連れて行ってほしいの──
近頃は珍しくなった昼間のりんからの誘いに、殺生丸は支度しろと答えた。
殺生丸がりんを連れてきたのは少し森を抜けた桜の群林。
何を言うでもなくその中を歩いていたが、突如殺生丸が足をとめた。
「何か言いたいことがあるのではないか」
話すことも忘れて桜に見惚れていたりんは慌てて思い出し、呑気な自分を叱咤した。
「…あ、あのね…」
いざ言葉に紡ごうとするとなぜか喉がつかえる。
金の瞳がりんの言葉を待っている。
吐きだすようにゆっくりと言った・
「殺生丸さま、…いまでも半妖は嫌い…?」
りんの真摯な瞳に殺生丸は少したじろいだ。
「何を突然」
「…殺生丸さまの御子が授かったの…」
りんは俯いて、静かに腹部に手を当てた。
そこに自分以外の何かがある実感なんてなかったけれど、そうせずにはいられなかった。
春の風景にはにつかわしくない、滞った空気が沈黙と共に流れる。
顔を上げることができなかった。
「……り」
「推古と宋耶がね、おめでとうございますって!
りんのお腹が大きくなっちゃうから、ゆるいお着物を用意してくれるっていってたの!」
「りん」
「お腹の子のお着物はりんが作ろうと思ってね。邪見さまに綺麗な布を用意してもらわなくちゃ。
あ、でもまだ赤ん坊が女の子か男の」 「りん!」
かすかに震えた明るい声は、殺生丸が珍しく荒げた声で不自然にしぼんでいった。
「……りん」
顔を上げると、いつもの端正な顔はあまりに予想通りの表情だった。
りんは着物の裾を堅く握り締めた。
「他の侍女たちも殺生丸さまとおんなじ顔してた……
どうして喜んでくれないの!?
お子が・・・殺生丸さまとりんのお子ができたんだよ!?
半妖だから!?生まれてくる子供が半妖だから嫌なの!?」
「そうではない」
息を切らしてまくし立てた。
変わって殺生丸はひどく弱々しげだった。
「そのようなこと取るに足りぬ」
「だったら」
「犬夜叉の母が何故死んだか知っておるのか」
突然の義弟の何、りんは疑問符を浮かべた。
「犬夜叉さまの・・・母上?」
自分と同じ立場にあった人の存在を、りんは初めて思った。
「あれの母は犬夜叉を生んだがために死んだ」
「え」
「半妖といえど、わが父の血を継いでいる。並みの妖力ではない。
それがあやつの母を殺した」
殺生丸の言わんとしていることを、りんはやっと汲み取った。
つまりはりんもそうなるということ。
子のお腹にある殺生丸の邪気がりんを蝕むなど、考えにも及ばなかった。
しかしそれを知った後でも、りんの瞳は揺るがない。
「……だったら殺生丸さまはどうしろっていうの?」
そう自ら聞いたのに、耳に手を当ててしゃがみこんでしまいたかった。
殺生丸の答えはあまりに簡単で、当然だったから。
「子は諦めろ」
淡白な言葉が風のように全身を貫いた気がした。
殺生丸の姿も、一枚の膜を通してみているようだった。
「だったら、だったらどうして」
「子をなさぬようにと薬師に頼んだ薬を食事に含ませていた」
目を逸らしたままそう言う殺生丸は、りんの目に起こられた子供のように小さく見えた。
自分の知らないところでそのような所作が為されていたことに怒るべきなのか、そうまでして愛を示してくれたことを喜べばいいのか、絡まった糸のように思考は上手く動いてくれなかった。
「殺せって言うの?」
「まだ生まれたわけではなかろう。薬師がそのための薬を持って」
殺生丸の胸板に小さな衝撃が走った。
りんの小さな拳が何度もそこを叩いた。
「でも生きてる!りんにもまだ分からないけど確かにここにいるの!
殺すなんてできないよ!どうして産んじゃいけないの!?」
「半妖が生まれてきて、どのように生きていかねばならぬかわかっておるのか。人とも妖とも交えない血を持つことになる。 生まれてきて後悔させることになっても」
「じゃあ犬夜叉さまは生まれてきて後悔してるって言うの!?
この子だってかごめ様みたいな人に出会うかもしれない!」
「お前は犬夜叉の幼少を知らぬからだ。人には忌み嫌われ、妖には蔑まれる」
「りんがこの子を守るもの!」
「そのお前が死ぬというておるのだ!!」
荒くなった低い声にりんは怯んだが、それでも瞳の強さは変わらない。
「人の子とは異なるのだぞ」
「わかってる」
「並みの妖気ではあるまい」
「わかってる」
「子と相交えて死ぬというのか!!」
「それでもいい!!」
ぺちんと気の抜けた音があたりに響いた。
りんの頬の柔らかな弾力が殺生丸の手の甲から全身を貫いた。
痛みと言うほどでもない刺激が頬を伝い、一瞬見えた殺生丸の顔は歪んでいた。
殺生丸は半ば寄りかかるようにりんに腕を回した。
「子など・・・」
「殺生丸さま?」
「子などいらぬ……」
肩越しに伝わるほんのかすかな震えは、確かに殺生丸のものだった。
───あぁ、殺生丸さまはわかってる。りんがもう決めたこと───
「・・・ごめんなさい、ありがとう、殺生丸さま」
りんは静かに腕を回し、絹糸のような銀の髪をすいた。
「馬鹿者が・・・」
りんは静かに涙した。
あれから五日、りんが再びあの場所へ行きたいと言い出した。
あの日帰ってきて邪見にもろもろのことを告げると、邪見は号泣し(鬱陶しいことこの上ない)、自ら市へと子に必要な品を買いにいったりしている。
りんはこの屋敷の古株に出産についての知識を叩き込まれたりと慌しい数日を送っていたが、何を思ったか再び連れて行けと言い出した。
連れまわしていいものかと案じたが、そう言うとりんは
「丈夫な子を産むためにはりんも動かなくちゃ!」
と一歩も引かなかった。
結局りんを連れて再び飛んだ。
桜はすでに散りすぎているほど落ちていて、どこを歩いても地面には花弁がちりばめられていた。
草が桃色に変わったようだと喜んで、りんは持参した布を広げてその場に座った。
「二人で来る最後のお花見だね」
りんの背後に腰を下ろすと、りんは桜の木々を見上げながら呟いた。
訝しげな顔をした私を振り返り、嬉々として付け加えた。
「来年は三人だもの」
強い春風が花弁と髪を巻き上げた。
吹き上がった花弁で一瞬りんの背が視界から消えたとき、強い衝動が己の胸を突き上げた。
あの日、この場所から帰ってきたその夜、閨でりんに尋ねた。
なぜそうも子が欲しいのか。
以前からそうなればと思っていたとりんは言った。
───この子がいれば、りんがいなくても殺生丸さまは一人じゃないでしょう?───
あたかもすばらしい考えだといわんばかりにりんは笑ったが、りんが寝入った後もその言葉は脳裏にしつこく焦げ付いたまま離れなかった。
今のこの衝動は、そのときと似ていると、そう思った。
残酷なほど頼りない。あっけない。
りんがその事実を厭わないことが何より怖かった。
その肩に手を伸ばすと、容易くりんの温もりに触れた。
これさえ繋ぎとめることはできないのだという現実が胸をつぶした。
そのまま細いからだを引き寄せて白の首筋に顔を埋めると、光る黒髪が頬を撫でた。
「・・・よい香がする」
そう呟くと、りんがくすぐったそうに笑った振動がかすかに伝わり、ひんやりとした指が腕に触れた。
幾度の季節がめぐろうと、この瞬間を忘れはしない。
たとえ脳が退化しても、何度も何度も反芻して身体に刻み込む。
それは朽ちても朽ちても新芽を息吹く、桜のように。
現実を見たくないから目をそらした
滞ったような黒々とした夜空を、無駄に爽やかな風が幾度も拭い去って行った。
銀の髪をはためかせ、男は戸をくぐった。
微笑んでそれを迎えるのは、袈裟姿の法師。
無言で座りこんだ男を、法師は黙って歓迎した。
初め、笑っているのかと思った。
前髪をぐしゃりとかき乱し、くつくつと声を漏らす。
赤衣に水滴が落ちてやっと泣いているのだと気付いた。
「…犬夜叉、」
片膝に顔を埋めるように嗚咽を漏らしては泣きじゃくる男に法師は困惑しながらも、ただその姿を見つめていた。
今夜は、いや今夜も星が多い。
このような夜更けといえど、外は嫌に明るかった。
「・・・もう、見ていられねぇんだ、あいつを…」
そう呟いては涙を呑み込み、ぽつりぽつりと話し出した。
今の二人、かごめの様子、これからの行く末。
くぐもった声を引き絞るように、それと一緒に痛みも溶け出せばいいのにと、犬夜叉は言葉を紡いだ。
目を閉じて黙って聞いていた法師は突如荒々しく男の赤の衣を掴んで引き上げた。
「お前は!!そんなもの覚悟の上でかごめさまと共に生きると決めたのだろう!
今になって嘆いてどうする!!」
しかし犬夜叉はその乾いた手を振り払った。
老いた僧の力など、数十年前から姿の変わらない妖に比べれば塵に等しかった。
「んなことわかってる!!…だけど・・・!・・・あいつが、かごめばかりが先に・・・
・・・俺のことなんてどうだったいいんだよ・・・でも、あいつは・・・自分が逝っちまった後の俺のことばかり心配するんだ・・・」
っとに馬鹿みてぇによ、と最後の言葉は消え入ってしまった。
弥勒は一息ついて衣を離し、思わず浮かべてしまった腰を沈めた。
「・・・犬夜叉。確かに私にお前たち二人の気持ちはわからない。
だが、お前が言う別れは誰もが等しく迎えることだ。
・・・私と珊瑚にも訪れるように。
だからこそ、それまでの時をいかに生きるかが重要なのだと私は思う。
・・・かごめさまはそれをわかっておられる。・・・しっかりしろ、犬夜叉」
犬夜叉は俯いたまま黙っていたが、のち妙に素直に頷いた。
「・・・悪かった。邪魔したな」
腰を上げて法師に背を向けると、後ろから声が追いかけた。
「早く行きなさい。そのような顔をしていてはかごめさまが心配します」
犬夜叉は片手を上げてそれを受け止めると、かごめの待つ小屋へと歩き出した。
白く澄んだ粥を皿によそうと、かぐわしい匂いが胸をいっぱいにした。
外には平べったい月が煌々と辺りを照らし、こんな夜でも髪の一筋一筋がはっきりと分かるほどだ。
珊瑚は器を布団の脇に置いた。
ごめんね、と呟きながら女はゆっくりと上体を起こし、器を手に取った。
珊瑚は気にしないでと笑みを見せたが、二人の表情は思い影が漂っている。
「犬夜叉・・・遅いね」
間を持とうとそう言ったが、かごめは小さく頷くだけで黙って少し粥を口にした。
薄茶の米がつやつやと光り、滴るように瑞々しく、視界を暖かく湿らせた。
「・・・犬夜叉がね。・・・優しくって・・・」
ぽつりと漏らした声は震えていて、霞んで散ってしまいそうな声だった。
「・・・手を・・・ね、握ってくれるんだけど・・・私の手は、こんなにも・・・」
小刻みに震える左手に視線を落とした。
擦ればかさりと落ち葉のような音がして、指の先まで皺が覆った、真っ白な手。
心は、想いは、こんなにも変わらないのに。
己の手を見つめたまま静かに涙を浮かべるかごめの肩を、珊瑚はやわらかく抱いた。
この人の、二人の気持ちを思い遣ることなどいくらだってできる。
だがそれは想像の範疇でしかない。
共に時を歩み、疲れたならば共に休み、世を去るときは手を繋いでゆく。
この二人にはそれすら叶わないのだ。
「・・・じゃあ」
珊瑚はかごめの耳元で幼子をあやすよう、そっと囁いた。
「・・・じゃあ、出会わなければよかった・・・?」
瞳の上に膜を張って保っていた均衡がぐらりと崩れ、かごめは涙をこぼした。
静かに首を振った。
「・・・先にいってしまうなら・・・せめて・・・」
かごめの一言一言に頷いて、珊瑚は優しくその背をさすった。
珊瑚はつられて自分の声まで震えてしまわないよう、気を張った。
「ほら、冷めちゃうよ。食べて食べて」
すすめられるがままにかごめは、涙と入り混じった粥を口に運んだ。
───先にいってしまうなら、せめて、少しでも傍で笑っていたい───
砂の擦れる音がして、かごめは顔をあげた。
戸の簾が捲れた。
「おかえりなさい、犬夜叉」
今夜は、いや今夜も星が多い。
犬夜叉は黒々とした空を見上げ、幾多も光る星々の明るさに目を細めた。
俺はあの時、どんな顔をしていたんだろう。
みっともない面を晒しはしなかっただろうか。
ただ、今みたいに眩しかった気がする。
俺は眩しくて、こうやって目を細めたんだ。
犬夜叉は一人空に笑いかけた。
自分が笑えば、同じ笑い声が返ってくる気がした。
───ああそうか。
お前はいつになっても、そうやって笑ってくれるんだな─────
暮れゆく空の色
何、いまの。
ぬめぬめとした赤が光る。
目が、離せない。
荒い息遣いが気味悪く響くけれど、それが自分のものだと気づいた。
なに
どうして─────
事の起こりは何気ない昼下がり。
邪見の目を盗んで、結緋は屋敷を抜け出した。
父は今日の夜長引いていた仕事から帰ってくる。
そのあいだ屋敷を守る母は、従者たちと小話をしていた。
つまらないつまらないと声を立てても、誰も構ってはくれない。
結緋が仕出かすいたずらの処理は、すでに従者もお手の物となっていた。
せっかく、今日は満月なのに。
満月の日は、なぜか無性に外へ行きたくなる。
そのうえじっとしていられない。
庭を走り回るくらいしかその気分を晴らすことを知らないけれど、もしも自由に外へ出れたなら─────
そんな気分が結緋を駆り立てて、思わず高い塀を越えてしまった。
しばらくして屋敷の中が騒然となることくらい想像がつく。
心配げな母の顔がちらついたが、外の誘惑には勝てなかった。
外に来たのはもう少し幼いとき。
母上と、父上と、それに邪見もいた。
皆でそろって何を見たのか今は思い出せない。
ただなびく髪をかきあげた母上が綺麗で、それに見とれていたのが自分だけではないことに気づいてなんだか悔しかった。
母上と父上のあいだに立ってただ何かを見ていた気がする。
母上とは手を繋いでいた。
父上はただ横にいた。
自分は顔を精一杯上げなければ母上と目を合わせられないのに、簡単に母上を眺められる父が悔しくかったのだけれど
疲れてきて眠たげな結緋を黙って抱き上げてくれたのは父上だった。
塀を越えて少し走ると、森に入っていた。
森に入ったということは、城の結界を抜けたということ。
主が居なくて妖力も手薄になっていたのだろう。
とても新鮮だった。
木々のざわめきも、庭のものとはまったく違う。
野生の荒々しい呼吸の音を肌で感じた。
森を走り川を渡りさまざまな動物を見た。
なんて楽しいの。
どうして父上たちはこんなに楽しいところへ来てはならないなんていうんだろう。
流れる汗を拭い、はだけた着物を締めなおしたとき、異変に気づいた。
静かだ。
先ほどまでささめいていた鳥のさえずりも、植物の声も聞こえない。
匂いは─────
風の匂いを感じようとしたとき、なぜか咄嗟にかがんだ。
ほとんどが本能だった。
結緋の頭上を見たことも無いほど毒々しい色の大蛇がかすめていった。
「・・・っ・・・!」
大蛇は再び向きを変え、若く純粋な生き血を求めて這ってくる。
考える間もなく結緋は走り出した。
どうして匂いに気づかなかったの。
どうしてこんなところに妖怪が。
はやく、はやく。
うちに帰らなきゃ。
匂いをたどれば帰れるはずなのに、屋敷の匂いを感じられない。
後ろを物凄い速さで追ってくる大蛇の音を拾うのに必死で、匂いを感じられなかった。
西国の王の娘が走る速さは相当なものである。
だがそれに苦もなく大蛇はついてくる。
ふと、視界を小さな白が横切った。
それと同時に大蛇の地を這う音が消えた。
───何?
思わず足を止めて振り向いた。
兎。
子兎。
だめ─────
結緋が踵を返したのと、大蛇が子兎に牙を剥いたのはほぼ同時だった。
歯切れの悪い切断の音が響いて、
腕には嫌な感触と重みがあって、
目の前には兎の頭を飲み込む大蛇。
腕の中には赤に染まったその胴体。
黄色の眼光が結緋を捕らえた。
その背後には落ちる太陽と共に昇る月───
それはそれは、とても綺麗な丸だった。
気づけば地に転がるのは、長い胴体を伸ばした蛇。
腸からは嫌な臭いと妖気が流れ出していた。
その横には先ほどの子兎の胴体。
静かに転がっていた。
視界が少しいつもより低い。
視線を落として、目を見張った。
脚が人の足ではない。
血に染まった白銀の毛に覆われていた。
手、手はどこ──?
この姿は────何?
犬、犬だ。
一度父上の本当の姿を見たことがある。
おなじ、結緋もおなじ─────
再び目の前に転がるむくろを見て、我に返った。
結緋が、したの───?
先ほど蛇に追われて走ったときよりも呼吸が、鼓動が、速い。
殺してしまった。
結緋が、殺してしまった─────
「・・・い、いやぁ───っ!!!」
悲壮な遠吠えが暮れかけた森一帯に響いた。
次に気づいたのは、水の中にいるように揺られているときだった。
「あ、起きた・・・!結緋、痛いところは無い?」
母の顔が近づいて、眉を潜めている。
己の手を顔の前までもってきた。
・・・いつもの手だ・・・
「城から出るなと言っただろう」
耳元から聞こえた低い声に、小さく肩が跳ねた。
目の前で銀の髪が揺れる。
父の腕に抱き運ばれていた。
「・・・ごめんなさい」
自分の非を認めた結緋がしおらしく謝ると、りんの細い指が頬を撫でた。
結緋の不在を知って城を抜け出したのだと悟ったりんは、すぐさま従者を連れて森へ赴こうとした。
そのときちょうど早めに帰宅した殺生丸と居合わせた。
りんが事情を説明すると、殺生丸はすでに知っていたようである。
ずいぶんとのんびりしたものだと邪見は思ったが、結緋の元へ再出発しようとする殺生丸にりんは自分も行くといって聞かなかった。
結局二人で結緋を探しに森へと出かけたのである。
森の中で見つけたのは、忌々しい大蛇の死骸と子兎の四肢、そしてその横に倒れる銀の子犬であった。
二人はわが娘を抱き上げて森を去った。
「・・・お前には私の血が濃い。
満月の日には、それがいっそう強くなる。
己で制御できぬうちは・・・」
「・・・犬になっちゃうの?」
結緋は殺生丸の肩の着物を握り締めた。
「・・・本来の姿だ。私にとっても、お前にとっても」
その白の着物に、結緋は顔を押し付けた。
「・・・こわかった。
・・・爪が、気持ちいいくらいよく斬れて・・・」
「じきに慣れる」
殺生丸は歩みを止めた。
その横にりんも立ち止まる。
小高い丘の上。
朱色の夕日が三人を赤く染める。
どこか見覚えがある。
あぁそうだ。昔三人で来たことがあった───
柔らかな風が三人の髪を掬い、銀と黒の髪が風に踊った。
りんはいつものように自分のそれをかきあげた。
やっぱり今でも母上は綺麗─────
思い出したように父の顔を覗くと、殺生丸もまた目を細めて眩しそうにりんを見ている。
銀の髪で目を隠してやろうか。
そんなことを思ったが、今日はやめた。
朱く染まった銀の髪が結緋の頬を撫でる。
母を見つめる父上の姿も、この上なく美しかった。