冴ゆ雪見
半年程前この屋敷を初めて訪れた際青く色づいていた桜の大木は、身を裂くように吹きすさぶ寒風のせいで茶色い枝を剥き出しに立ち尽くしていた。
今日は一段と冷える。
りんは肩に羽織った布をかけ直した。
きんと澄んだ空気が切るようにりんの肌を刺すけれど、それさえ心地いいほど清々しい天気だった。
昼間はいつもとなんらかわらぬ時間を過ごした。
邪見に小言を言われながら屋敷の雑事をこなし、推古たちの指導のもと少し勉学もした。
しかし非日常なことが起こったのは、正午を少し過ぎてから。
昼餉を片していたりんの部屋に突然殺生丸が現れた。
りんから訪ねることはあっても、殺生丸が訪れることなど稀にも程がある。
目を丸めるりんに、殺生丸は言葉を探すようにゆっくりと口を開いた。
「…雪見に行かぬか」
思いがけない言葉に、りんはさらに目を丸くした。
「…雪?」
傍の障子を開けると、いつから降りだしたのだろうか、すでに地は薄白く染まり始めている。
「あ、降ってる…でも殺生丸さま、どうして…」
「行くのか、行かぬのか」
返事を急く殺生丸に、りんは断る理由などない。
「行くっ!!」
「厚手の羽織りは用意させる。支度しろ」
淡泊に言い残して部屋を去った殺生丸の後ろ姿を見送って、りんはおかしさが込み上げて来た。
人間の風流事なんて好まないと言っていたのに。
きっと屋敷に閉じこもったきりのりんを気にかけて誘ってくれたのだろう。
もしかすると、りんの侍女たちに入れ知恵されたのかもしれない。
りんが昔のように外を楽しみがっていると。
どちらにしろ、この上なく嬉しかった。
折角だからと殺生丸が先日与えてくれた新しい着物に着替えた。
薄青の小花がちりばめられた落ち着いた色合いのそれは、艶を放つ黒髪によく合った。
支度を終えて庭に出るともうそこは白一色で、それでもまだはらはらと大粒の白は絶えなかった。
その中に溶け込むかのように佇む銀の妖のもとへと駆け寄ると、薄紫の羽織りを手渡された。
「あれ、阿吽は?それに邪見さまも」
「…阿吽を出す程でもない。邪見は…不要だ。行くぞ」
いつかのように柔らかな所作でりんを抱き上げ、りんが思わず目をつむって次に開いたときにはもう、妖は空高く風を切って飛んでいた。
横を見ると景色が白の斑模様のように過ぎていくのに、不思議と自身に雪の粒が当たらない。
白毛がいつのまにかりんを寒さから守っていた。
「殺生丸さま、どこまで行くの?森を出るの?」
「…森は出ぬ。少し先に雪蜜という妖怪が住んでいる。そこだ」
「妖怪に会いに行くの?」
「…行けばわかる」
ふうんと頷いたきり、りんは久しぶりの新鮮な空の空気を楽しんでいた。
眼下には小さな庵が迫っていた。
殺生丸はその藁葺きの一軒家の前に降り立ち、りんを降ろすや否や無遠慮にその戸を開けた。
「いるか」
殺生丸の呼びかけに突如雪が渦巻き、家の中を覗き込む二人の間を吹雪が通り抜けた。
「犬の…息子?」
幼子のようにか細い声が聞こえた。
目を凝らすと、屋内に吹き込んだ吹雪が徐々に人の形を作っていく。
りんは目を見張った。
そこには人里の子供のようにも見える少年が立っていた。
「ああ、やっぱりそうか。大将の息子だ」
少年が目で二人に入るよう促し、りんが中に入ると、後ろで戸が自然と閉まった。
「なんの用だい」
少年は囲炉裏端に腰を降ろした。
「見せてもらいたいものがある」
少年はふぅんとわかったように頷き、次はりんに視線を移した。
「これが話に聞く人の子かい。…なるほどね」
爪先から頭のてっぺんまで見回されて、りんは居心地悪いのかもぞもぞと身じろいだ。
「…うん、いいよ。約束だしね」
少年はぽんと膝を打って立ち上がった。
「さて、じゃあ準備準備」
途端に少年は雪と化し、再び戸の隙間を流れるように出て行ってしまった。
「殺生丸さま?何が…」
突如辺りが夜のように暗まり、庵の中にいたはずがいつのまにか二人は夜の雪原に立っていた。
「えっ…!?」
思わず殺生丸の袖口に掴まると、硬い指がりんの肩に触れた。
ふと空からはらはらと明るいものが落ちてくることに気付いた。
「雪…?」
手を伸ばしてそれを受けると確かにそれは冷たくて、紛れも無く雪だった。
雪は光の量を変えて輝きながら落ちてくる。
まるで金の粒が降るかのように。
「…すっ…すごいっ!ねぇ殺生丸さま!すごく綺麗!」
興奮して殺生丸の振袖を引っ張りながらも、目はその光景から離せない。
「気に入ったか」
「…うん、すごく…」
嘆息混じりに呟くと、上から皮肉な声がかかった。
「走り回らんでもよいのか」
りんはむぅと額に皺を寄せた。
「もう子供じゃないもんっ」
意地を張るようにそう答えると、すっと風が通るような音が聞こえて、りんは顔をあげた。
暗闇に光る雪が、妖の端正な顔に現れた微笑を照らしていた。
――久しぶり…ううん、初めてかもしれない。 殺生丸さまがこんな風に笑うのを見るの――
思わず長く見上げていると、それに気付いた殺生丸と視線がぶつかった。
しばしの沈黙のあと、なんとなくりんがへらりと笑うと殺生丸は逆に顔をしかめるような顔をした。
「殺生丸さまお顔変だよ」
「…うるさい」
眠れぬ夜に別れを
月の無い夜だった。
ぺたぺたと、少し湿った足音がかすかに聞こえる。
それと共に、布が擦れるような音も届く。
か弱き少女が拠り所を求めてさまよう姿が容易に想像できた。
足音はやはり自室の前でぴたりとやみ、再び静寂が蘇る。
呼ばれるのを待っているのだろうか。
入ることをためらっているのだろうか。
妖はあえて声をかけず、立ち止まった小さな影を頬杖を突いて眺めた。
「・・・殺生丸さま」
か細い声が障子の隙間を潜るように入ってくる。
「・・・なんだ」
しゅるりとなめらかに障子が開き、弱々しげな顔をした少女は殺生丸と向かい合った。
そのまま黙って敷居をまたぎ、本を広げたままりんを見上げる殺生丸のそばへと腰を下ろした。
それは肩と肩が触れ合うほど近く。
「・・・寝れんのか」
「・・・うん、少し・・・」
少し、何だと問うこともせず、そのまま妖は書物へと目を戻した。
今宵は風も少ない。
従者たちも、明日の準備に精を出している頃だろうが、自室にそのようなわずらわしい音が届かぬようそことは距離を置いてある。
とても静かだった。
ことりと小さな重みが肩にかかる。
眠ったのかと思って視線を移すと、思いがけずりんと目が合った。
黒の瞳の中心に映る己が見えた。
どうしてか視線を外す気になれず、押し黙ったまま互いの瞳を見つめていた。
しかし先に視線を外したのは、見上げるようにしていたりんのほうだった。
「・・・怖かったの」
少し俯き気味に、ぽつりともらした。
「・・・夢か」
ふるふると首を振った。
「・・・すごく、静かで・・・怖かった・・・」
ああ、と殺生丸は解した。
この地に来て数日、毎晩毎晩主人が連れてきた人間に対するたわいも無い噂が絶えず、そこらじゅうから従者の潜めたような声が聞こえていた。
それに加えて、突然帰宅した大妖の気配に反応してこの辺りの小妖怪共が騒いでいた。
それに対応する護衛たちの音も耳に届いていた。
だが近頃はそれも落ち着いてきて、穏やかな夜が増えてきた。
しかも今日はしきりとりんの世話を焼く邪見を愚弟のもとへ遣いに出してしまった。
ゆえに、寂しかったのだろうか。
だがそれならば、我ら妖怪と共に歩み始めるまで一人で過ごした夜はどれほどのものだったのだろう。
それはあまりに遠くて、想像にも及ばぬほどであるけれど。
「好きなだけ居ればよい」
そう告げて、殺生丸は再び書物を眺めた。
りんはすこし顔を上げて美麗な横顔を眺め、再び頭をその肩、というより腕に預けた。
風は無いのに、そよぐような温もりが通り抜けてゆく。
りんは目を閉じた。
これをしあわせとよぶのかな
それはゆっくりゆっくりと少女を、そして白い妖を眠りへといざなうのであった。
果て無き先を信じて
─────はいっ殺生丸さま!
─────・・・いらぬと言うておろう。
─────でもこんなにおいしそうだよ!真っ赤で・・・
あ、冬にはりんのほっぺもこんな色になってるのかなぁ?
─────・・・早く食え
─────はぁい・・・─────
つるりと光った果実を手にとって、りんは口角をあげた。
きっと殺生丸さまは覚えてなんかいない。
それでも、嬉しかった。
あの日二人で眺めたものが、今もここにあることが。
「りん」
背後から低い声がかかる。
少し、意地悪をしてみたい気になった。
「・・・殺生丸さま。懐かしいね、これ。覚えてる・・・?」
たわわに実った果実の木の前で、りんは肩越しに振り返った。
予想通り殺生丸は、眉間に皺を寄せて黙っている。
記憶を辿っているのか、りんの言葉の意味すら分からないのか。
どちらでもよかった。
覚えているはずが無い。
人が過ごす一分を、このひとは一年と数えるようなものなのだから。
りんがどれほど暖めた思い出であろうと、万年のときを生きる妖の時間軸では霞んでしまう。
「・・・殺生丸さまがりんに初めてこれをくれたんだよ」
ぼんやりとだが、妖の記憶にも霞がかった映像が浮かんだ。
己の手から渡される赤の実。
「・・・放っておいたらお前が倒れたからだ」
そっぽを向いて答えた殺生丸に隠れて、りんはひっそりと笑った。
本当は、どうでもいいこと。
殺生丸さまがくれたすべてを、りんが勝手に覚えているだけなのだから。
久しぶりに見た、幼い頃を思わせる悪戯めいた顔つき。
覚えているかと尋ねてきた。
赤い実一つにこんなにも記憶を詰め込める人間と言うものを、どこまで解せばいいのか分からずに黙っていた。
なんとかひっぱりだした記憶を口にすると、りんは少しうつむいて隠れるように笑った。
こうして過ごす今もすでに過去なのだと、このか弱き命と共にすることで嫌と言うほど身に染みた。
だから、あまりに頼りない記憶にすがるより今がすべてなのだと。
私は誰よりも知っている。
守りたいと願えば願うほど、それはこの手をすり抜ける。
それがわからないから、傍にいると決めた。
本当を言うと少し、淋しかった。
同じときを生きられないことが。
思ったより、苦しかった。
その現実に気づいたとき。
二人の間に永遠は存在しないけど。
存在しないから。
だからこそ、今がひどく愛しい。
突発作シンドローム発病・・・!
しゅわわわわわっφ(`д´)
とね。←
実は、私の中の殺りんソングを発見してしまいました・・・!!
いや、すでにそれを知っている人から情報を拝借したのですが。
某動画サイトで、殺りん映像とその曲によるコンビネーションを何気なく見て、
もんのすごい衝動を受けました。
・・・これこそ、まさに私の中の殺りん・・・!!!
その曲はZARDの「永遠」
名曲なんで周知でしょうが。
私も聞いたことありましたが、殺りんとの組み合わせは考えたことありませんでした。
その動画を聞いた途端、
書きたい書きたい書きたい掻きたい掻きたい・・・!←と。
いやでもさすがにあまりにその場で書いたものなので、のちのち手直しするつもりですが。
歌詞からヒントを得るというのが案外難しくて驚きました。
精進精進><
この思いを伝えられたなら
女は向かい合った。
一人の人間に。
それも、もう息の薄い者。
いつもと変わらない端正な顔には、哀れみも悲しみも表れない。
ただ、消えゆくものを惜しむ心が滲んでいた。
「・・・調子はどうだ」
分かりきったことを、と思う。だが他にかける言葉もなかった。
横たわる人間はゆっくりと上体を起こそうとしたが、それを白い手が押しとどめた。
ごめんなさい、と北風のような声が通り過ぎる。
「・・・りん」
呼びかけると、幼い頃から変わらない黒い目を確かに女と合わせた。
「・・・お前はもう死ぬ」
顔色もそのままに、女は述べた。
りんはゆっくりと瞬いたが、そこには焦りも驚きも無かった。
「わかっています」
その答えに、女はしかとうなずいた。
「殺生丸を残して、だ」
酷な事だが、と言う女に、りんは心の底から感謝を述べた。
─────このお方がいたから、りんは・・・───
「覚悟の上のことです」
そうか、と女はうつむいた。
しばらく沈黙が流れる。
すると、おもむろに女は懐から包みを取り出した。
それを広げると、赤い丸薬が数粒転がった。
不思議そうにそれを見つめるりんに、女はその粒をひとつ手に取った。
「これは、我が一族の妖血。我らの血はすべてここに繋がっている。
・・・もしも、そなたが殺生丸と同じ時を生き続けたいのなら・・・これを服せば、そなたも半永久の命を手に入れることができる」
りんはゆっくりと、丸薬から女に視線を移した。
やはりその顔から感情を読み取るのは難しかった。
だが、確かなものがその瞳にはあった。
「・・・妖怪になる、ということですか」
「まぁ、そういうことだ」
りんは少しの間目を閉じて、それからゆっくりと首を横に振った。
「りんには必要ありません」
女はすでにその答えを知っていたかのように頷いたが、付け足したように、何故と尋ねた。
「・・・りんと殺生丸さまとの事は、すべてりんが人で殺生丸さまが妖怪であったからこそ。
りんは人として限りある生を全うします」
そうか、と目を伏せた女は静かに丸薬を懐に戻した。
それから顔を上げ、薄い手のひらをりんの頬に寄せた。
「・・・幸せ者だな」
そう呟くと、女は腰を上げ、りんに背を向けた。
「・・・殺生丸さまは」
呼び止めるようなりんの声に、女は半身振り返った。
「殺生丸さまは・・・それをお望みでしょうか」
揺れる黒の瞳を覗き込み、女はそっと笑った。
「あやつの願いはいつもそなたと共にある。案ずることは無い」
そのまま障子に手をかけ、女は静かに部屋を後にした。
りんは最後までその背を見つめていた。
部屋の前には、まだ若いがしっかりとした大木がそそり立つ。
寒風がその葉を散らし、刻々と若木は裸になってゆく。
女は日が傾き、月が露になり始めるまでその大木を見上げていた。
今更そんな事言わないで
乾いた木の目の上を、何度も布を滑らせた。
磨きすぎて嫌に光った床が、嘲笑うかのように眩しい。
腰を上げ、磨かれた長い廊下の先を見遣った。
最後だ。
これも、今日で最後───
ぱたり、と小さな何かが床にぶつかった。
磨いたばかりの廊下に小さく染み付いた水滴が己の涙と気づくまで、少し時間がかかった。
─────どうして。
恐る恐る指先で目元を拭うと、玉のような涙が指の上で小刻みに震えている。
─────どうして、泣いているの。
瞳を覆う膜を隠すように、堅く目を閉じた。
─────行けばいいと、言ったのに。
背後から、清い衣擦れの音が敏感に耳を撃った。
振り向く勇気なんて、あるはずが無い。
「何故──泣く」
涙の匂いまで、この人には分かってしまうのだろうか。
それならばせめて、明日を待つ喜びの涙だと思って欲しい。
「・・・明日が待ち遠しいの」
上手く言えただろうか。
震えてはいなかっただろうか。
確かめるために、振り向いた。
─────あなたが行けばいいといったから。
─────だから私は決めたのに。
─────どうしてそんな顔をするの。
これ以上ここにいてはいけない。
我慢ができないから。
「・・・明日の仕度があるから」
立ち上がったときの軽い眩暈は、初めてこの人に抱かれたときと似ていた。
────だめだ。
思い出してはいけない。
でも、下を向いてもいけない。
前を見据える。
銀の人が立っていた。
あなたは私が泣いたとき、いつも困った顔をするのに。
どうして今日はあなたが泣きそうなの。
一歩ずつ近づいて、隣に並んで、一歩ずつ遠ざかる。
視線を外すことはなかったけれど、腕を掴んでもくれなかった。
莫迦な期待が寒い。
唯一を手放してしまったのに
幸せになんてなれるはずない。