今更そんな事言わないで
乾いた木の目の上を、何度も布を滑らせた。
磨きすぎて嫌に光った床が、嘲笑うかのように眩しい。
腰を上げ、磨かれた長い廊下の先を見遣った。
最後だ。
これも、今日で最後───
ぱたり、と小さな何かが床にぶつかった。
磨いたばかりの廊下に小さく染み付いた水滴が己の涙と気づくまで、少し時間がかかった。
─────どうして。
恐る恐る指先で目元を拭うと、玉のような涙が指の上で小刻みに震えている。
─────どうして、泣いているの。
瞳を覆う膜を隠すように、堅く目を閉じた。
─────行けばいいと、言ったのに。
背後から、清い衣擦れの音が敏感に耳を撃った。
振り向く勇気なんて、あるはずが無い。
「何故──泣く」
涙の匂いまで、この人には分かってしまうのだろうか。
それならばせめて、明日を待つ喜びの涙だと思って欲しい。
「・・・明日が待ち遠しいの」
上手く言えただろうか。
震えてはいなかっただろうか。
確かめるために、振り向いた。
─────あなたが行けばいいといったから。
─────だから私は決めたのに。
─────どうしてそんな顔をするの。
これ以上ここにいてはいけない。
我慢ができないから。
「・・・明日の仕度があるから」
立ち上がったときの軽い眩暈は、初めてこの人に抱かれたときと似ていた。
────だめだ。
思い出してはいけない。
でも、下を向いてもいけない。
前を見据える。
銀の人が立っていた。
あなたは私が泣いたとき、いつも困った顔をするのに。
どうして今日はあなたが泣きそうなの。
一歩ずつ近づいて、隣に並んで、一歩ずつ遠ざかる。
視線を外すことはなかったけれど、腕を掴んでもくれなかった。
莫迦な期待が寒い。
唯一を手放してしまったのに
幸せになんてなれるはずない。
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