消失の捕獲
姫は月を見上げる。
蒼く笑う月は、徐々に徐々に、姫の記憶を食んでいた。
りんが熱を出した。この城に来てしばらくはよくあったことだったが、近頃はそれも少なく、よって久しいことだった。
殺生丸の広い掌がりんの額に乗せられると、りんは全自動式に微笑んだが、熱は引かなかった。
「ただの風邪だが・・・いかんせん熱が高い。薬も効かんじゃ手の施しようがない。娘の体力次第だ」
緑色をした皺の多い薬師はそう言い切ったが、殺生丸の眉間の皺は一本たりとも消えない。
「なんとかしろ」
「・・・だから今言っただろうが。手の施しようがない。いいもんでも食わせるんだな」
これ以上殺生丸の激昂に触れてたまるかと言うように、薬師は手早く荷物をまとめ城を発ってしまった。
「・・・せ、殺生丸さま、何かりんの食事を・・・」
「楓に聞いてこい」
「はいぃっ!」
邪見はすぐさま阿吽に飛び乗り、一目散に楓の村へと向かった。
正直ここ数日苦しんでいるのはりんではなく我々従者なのではないかと、邪見は思っている。殺生丸の無言の威圧感、覇気はひりひりと他の妖怪を刺激する。
「・・・まったく、たまらんわ」
一人ごちた邪見は、ぐんぐんと人里へと近づいて行った。
りんの眠る部屋の襖を開けると、ちょうど推古がりんの汗を拭いているところだった。
殺生丸が無言でそこに立っていると、推古は苦笑しつつその手を早める。手早くその行為を終えた推古は、推古を通り過ぎりんへと歩み寄っている殺生丸を呼びとめた。
眉根を寄せて振り返る主を部屋の外へと連れ出す。
「なんだ」
「・・・りんさまですが、その、私のあやふやな人間の知識でありますが」
「はっきり言え」
「・・・人間と言うのは、高い熱が続くとどうもさまざまな器官に異常をきたすようでして」
「・・・」
「たとえば、耳が聞こえなくなったり、すこし記憶が…飛んでしまったり」
この城にりんとすみつき、幾年もの月日が流れた。その期間、常にりんを己の元に置き絶大な力によって庇護してきたつもりだ。現にりんがこの城に来てからこれといった危機にあったことなどない。
だがこの城、己が護るべき範疇にありながら、いやだからこそ人間のことをわかる者などいないここにりんを置いて今のような危機にさらしていては、本末転倒ではないか。
「…どうすれば、よい」
「…私もこう申し上げておきながら、解決策もわかりません。薬師の言うとおり、りんさまの体力次第なのでしょう。…ただ、りんさまが望むことがひとつ」
問うように視線を動かすと、推古は柔らかに笑った。
「お傍にいてあげて下さいませ」
推古はそれだけ言うと、殺生丸の強い視線をしっかりと受け止め、それから滑らかにりんがいる部屋へと視線を移すと、殺生丸に小さく頭を下げその場を立ち去った。
殺生丸はと言うと、無力な自分の掌が役に立つのならば、とりんの部屋の襖に手をかけたのだった。
七日後、りんの熱は無事引いた。
邪見がかごめと楓に伝授された薬草をかき集めたからか、それとも殺生丸が職務中以外常につきっきりでいたからか。
なにはともあれ、りんは身体を起こせるほどに回復した。
「・・・欲しいものはないか」
「・・・ない、よ。殺生丸さまがいるから」
わかっているくせにとでも言うように笑うりんは病の欠片もなく、案じていた身体の異常もないようである。
ふっと安堵の息を吐いたそのとき、次にりんが零したひとことに殺生丸は息をつめた。
「・・・ねぇ殺生丸さま、ここどこだっけ?楓さまのおうちじゃないよね」
すごく立派なところみたい、と言いながらぐるりとあたりを見回す。一方殺生丸は、食い入るようにりんを見つめた。
返事のしない殺生丸に再び視線を戻したりんは、固まったままのそのひとに首をかしげる。
「…殺生丸さま?」
「…ここがわからんのか」
「・・・う、ん・・・え、でも旅の途中でりんがまた熱出しちゃって、ここに寄ってくれたんだよね?」
りんの言葉一つ一つに、頭がついて行かない。
殺生丸はゆっくりと口を開いた。
「…退治屋と法師の、子供を知っているか」
「…珊瑚さまと、弥勒さまの?子供?え、いたの!?」
「…かごめが、戻ってきた。犬夜叉と一緒になった」
「…どこから戻ってきたの?」
「…りん、お前は私の后だ」
「・・・え?」
*
「記憶障害ですな」
ぼんやりと薬師と殺生丸の顔を交互に見やるりんを傍目に、薬師は淡々と告げた。
「高熱が続き、中枢器官に異常をきたしたんだろう」
「はやく治せ」
眉を眇めた殺生丸をちらりと目の端に捉えた薬師は、わざとらしく息をついた。
「治せんよ」
「…」
「こればっかりはどうにもできん。人間の薬師であろうと無理な話だ。自然に思い出すのを待てばよかろう。何かきっかけがあるかもしれんしな。なに、すべてを忘れたわけではあるまい。ここの場所がわからんだけなんだろう」
いそいそと荷物をまとめる薬師に殺生丸は返す言葉もない。
お手上げと言われてしまえばそれまでだ。自分にできることもないのだから。
「せ、殺生丸さまっ」
焦ったような声とともに殺生丸の白く澄んだ着物の裾が軽く引かれる。
「りん大丈夫だよ、全然おかしな感じしないんだもん。きっとすぐ思い出すよ」
にこりと目を細めて微笑まれてしまっては、殺生丸も二の句が継げない。
何よりここ数週間見られなかった笑顔が見れたのだ、よしとしよう。
「…今日は一日休んでいろ」
冷えた指先がりんの頬を撫で、殺生丸は腰をあげた。
りんの言うとおり生活に支障があるわけでもない、そのうち思い出すだろうと、そのときは思っていたのだ。
*
「・・・りんは」
「今は東の縁側に座っております」
こうこうと輝く月夜に反して、邪見の顔は暗い。
主の顔にも影が落ちていた。
りんの状態は良くならなかった。むしろ、悪くなる一方で。
りんは日に日に記憶を失っていった。
熱が引き意識を取り戻したあの日、りんはこの屋敷に来た時分のことを忘れていた。
その数日後、りんは草履を履くことを忘れた。
そしてそのまた数日後、りんは殺生丸に奈落を追わなくていいのかと尋ねた。
りんの記憶は日を増すごとに蝕まれていた。
まるで見えない何かがりんに住み着いて記憶を食んでいるようで、空恐ろしい。
そして大妖が何よりも恐れることがあった。誰にも口にしてはいなかったが、従者の誰もが感じていた。
「りん」
縁側に腰掛け、何を考えているのか月を見上げて白く光る横顔に声をかける。
ゆっくりと首が回り、りんの面がこちらを向いた。そしてゆるりとほほ笑む。
「殺生丸さま」
その薄い唇の隙間から己の名前が紡がれるたびに、殺生丸はひどく安堵した。
そしてそのたびに思った。
まだ大丈夫だ。いやそもそもりんが私を忘れることなどありはしない、あってたまるか、と。
しかしそれはただの自尊で、侵食は止まらなかった。
*
近頃朝餉をりんに運ぶのは邪見の仕事となっていた。
他の従者たちは毎朝りんに会うたびにきょとんとされることに耐えきれず、邪見に託したのだ。
「りん、起きておるか」
襖を小さく開け顔を覗かせる。布団を片している途中のりんがゆっくりとそちらを向いた。
「今日は天気がいいからの、布団を干すのもいいかもしれんぞ」
そういいながらりんの膳を用意する邪見は、ふと視線を感じて顔をあげた。
邪見が部屋に踏み入った際からりんの動きが止まっている。
「・・・りん?」
「・・・?」
ぽとりとりんの箸を落とした邪見は、りんの問いに答えることなく涙を散らしながら主の元まで駆けだした。
「せせせせ殺生丸さま・・・!」
「煩い」
「り、りりりんが、わしのことを…!」
そこでようやく殺生丸は顔をあげた。筆を机に置くとかたりと乾いた音がする。
ついにきた、と思った。
むせび泣く邪見の傍らを通り過ぎ、殺生丸はりんの部屋へと足を運んだ。
「りん」
開いたままの障子の奥で、りんはつくねんと座っていた。
その言葉に促されるようにしてこちらを向いたりんの顔からはなんの表情も読み取れず、確信した。
ゆっくりと座り込むその身体に近づく。
「私が、わかるか」
小さな頭がゆっくりと振られた。
「…名前を言ってみろ」
再び頭が横に振られる。
歯がゆい思いを押さえつつ、殺生丸はゆっくりと口を動かした。
「お前は話せる。声が出る。言ってみろ」
ちいさな口がおぼつかなく開いた。
「…り…りん…」
そう言ってから自分の声が出ることに驚いたかのように目を丸くしたりんは、ぱっと喉を押さえた。
そうしてから、りんは素早く顔をあげ、殺生丸をその瞳に捉えた。
「…ありがとう…!」
にこりと、花咲くほどの笑顔で、りんは笑った。
声が出るようになったのが殺生丸のおかげだと思ったらしく、笑いながら幾度もありがとうと口にした。
歯を噛み締めると、ぎっと鈍い音がした。
細く伸びた腕を掴み引き寄せる。わっと素っ頓狂な声がりんから漏れた。
りんだ、これはりんだ。
たとえ私のことを忘れても、何一つ消えてしまったとしても。
抱き寄せた腰の細さも黒髪から溢れ出る香りも鈴のように鳴る声も、そして何よりも笑った顔が、りん以外の何物でもない。
それでいいと思った。
りんは変わらん。私が変わらぬように、りんも変わらん。
忘れてしまったのならばこれからその穴を埋めていけばいい。
「・・・あ、あの・・・」
おずおずと腕の中で声をあげたりんを引きはがし、顔を覗く。
少しの焦りが滲んだその瞳は濁ることなく澄んでいて、やはりりんだと再び思う。
「腹が減っていないか」
「…お腹…?減った…」
近くに用意されたままの膳を引き寄せた。
「お前のだ、りん」
そう言うと、いいのかと問うように殺生丸の顔を覗き込む。軽く頷いてやると、また嬉しそうに破顔した。
*
諦め、とはまた違うが、りんの病に殺生丸が自分の中で決着をつけたその日のうちに、りんの病にも決着がついた。
それは殺生丸が、りんの熱が引いたら渡そうと前々から準備してあった着物を手渡したときだった。
りんは初め嬉しそうに、しかしすこしの申し訳なさを滲ませながら着物を受け取った。
「ありがとう殺生丸さま!」
こちらを見上げてにこりと笑ったりんは、そう言ってからあれ、と首をかしげた。
手渡した殺生丸のほうも、目を丸めた。
今日一日、りんが己のことを忘れてから、殺生丸はまだ名乗っていなかったのだ。
りんも今自分が口をついた言葉に疑問符を浮かべている。
「…あれ、今なんて…せ、っしょうまる、さま?」
自然と口にした言葉の意味がわからずただただ二人は向かい合ってお互いを見つめた。
「…思い出したのか」
「…あ、れー?」
首をかしげる様子を見て、どうもそういうわけではないらしい。
しかし確かに今、りんは己の名を口にした。
「せっしょうまる、さま。せっしょうまるさま」
確かめるように何度もその言葉を紡ぎ、りんは再び首をかしげながら殺生丸を見上げた。
「なんだか口が勝手に覚えてるみたい」
変なの、と呟きながらりんは自身の唇に指をあてがった。
殺生丸は、ふつふつと湧き上がる感情が促すままにりんの口元にある白い手を掴んだ。
身体が、覚えていた。
頭が忘れようと、りんの身体には己が刻み込まれていたのだ。
その事実が、どうしようもなく殺生丸を突き動かした。どうやらこの感情は喜びと言うらしい。
掴んだ白い手をそのままに腰をかがめ、先程までりんの指先が触れていたそこに自分の唇をあてがう。
たがいに目を開いたまま、至近距離で視線が交わった。
りんは唇が触れた瞬間さらに大きく眼を見開き、それからぎゅっと瞼を閉じた。
いつもの癖だ。口づける時、りんは必ず何かに堪えるように目を固く閉ざす。
やわらかく唇が離れた。
「…殺生丸さま、」
「…りん」
今度はしっかりと、大妖の名を呼んだ。
思い出したのか、と言ってみると、なにを?と問われた。
そこへ突如飛び込んできた小さな緑色の塊。
「りーん!!山奥深くに住まうという仙人から物忘れの薬を賜ってきたぞ!これを飲めばお前も」
「あ、邪見さま」
何事もなく呟かれたその言葉に、邪見の顎がかくっと堕ちた。
そしてふるふると震えだす。
「…お、思い出したのか…!?」
「だから何を?」
忘れていたことをすでに忘れたらしいりんは、不思議そうに殺生丸と邪見を交互に見遣り、ふふっと声を出して笑った。
「ふたりとも変なお顔」
邪見は蹲るようにして喜びにむせび泣き、殺生丸は少し顔をしかめてりんの頭をくしゃりと撫でる。
りんは肩をすくめて、くすぐったそうに笑った。
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