抱擁の時(殺左腕復活記念)
熱い。
内から滔々と溢れ出る何かを抑える術も知らず、私は前を見据えた。
かつて肉を裂き、血を吸い、私の一部としてあったものが、今再びこの身体にあるのだ。
痺れに似た懐かしい感覚が、左側から押し寄せてくる。
その指がしかと握るものから、異質なものは感じられない。
いわば、私そのものだった。
父の墓に残されたそれは、あの世とこの世の境で、主を嘲笑していたのだろうか。
半妖風情に腕を落とされおって
父の形見まで持って行かれ
哀れな、大妖よ
しかしそれも今は私とひとつになった。
自身の武器となるものを携えて。
それは私が、私の意思がもたらしたという。
父への憧憬
弟への悔恨
この執着から解き放たれたからこそ、爆砕牙はこの手に、この左手にあるのだ。
刀の柄に指の腹を擦らせた。
ざらついた触覚が神経を燻ぶる。
殺生丸は遠い静寂の中で眠る父に想いを馳せた。
薄暗く荒廃したかのような地で、父はその巨体を骨と化し、しかし毅然と屹立していた。
その体を前にして、これから遺品を預かりに行こうというのに、無意識に恐れをなした。
亡き者が生者に勝るはずもない。
死んでしまえばそれまで。
己を奮い立たせるようにして、父の腹へ、その牙がある地へ足を踏み入れた。
だが。
私に抗う光が、犬夜叉を受け入れた。
その光が焼いたのは我が右手のみだとしても、痛みは全身を貫いた。
この世はどこまでも不条理だ。
落とされた左腕を残して、私はそこを去った。
逆流する血が全身を駆け巡り、それに伴い滴る赤が我が軌跡を彩った。
必然と自負していたものが手に入らぬとき、それは何倍もの欲となり己を襲う。
私は幾度も牙を奪おうとした。
必要あらば何であろうと手を組んだ。
幾年もの時を共に過ごしてきた腰の刀には目もくれず。
「あさましく、愚かで強欲な」人間を忌み嫌って来たことは偽りではないにもかかわらず、その頃の私と人間の差は、僅かなものだっただろう。
その私を、天生牙は導いた。
甦る命は荒む心を包み、守った。
それが父の意思だと知ってもなお鉄砕牙への執着は捨てきれなかったものの、私は天生牙を育てることを決めた。
だがそれでも育まれた技、冥道残月破は犬夜叉のためのものだった。
――お前の親父はつくづく残酷なことを――
それほどまで、父上は犬夜叉を―――
奴が鉄砕牙を受け継いだことも、いつしか己の中で呑み込んでいた。
それもこの天生牙――冥道残月破が私に残されていたが故。
やはり私はあれの次なのか。
これほど濃い血を流しておきながら。
―――それでも父上――――
だからだろうか。
奈落の手の上を転がされるだけだとわかっていながら、神無の鏡を受け取った。
鉄砕牙の真の継承者。
それを見極めるべく、犬夜叉のもとへと足を運んだ。
大きく口を開ける冥道。
飲み込まれる身体。
眼下を意識を失った犬夜叉が流れてゆく。
その背からは瘴気の匂いがたちこめていた。
―――まだだ。
まだ、真にこれを受け継ぐものが決まってはおらぬ――
犬夜叉の背に刺さる金剛石を抜き、拳に焦燥を込めて殴った。
飲み込まれてしまえば、それまで。
助かる術など…
腰の刀が震った。
熱を持ち、わが身をどこかへ導かんとする。
――帰りたいのか
天生牙の意志を汲み取るかのように、柄に手をかけた。
鉄砕牙に奪われ――いや、戻った己が育んだ技を惜しいとは思わなかった。
半妖故に多くを託された弟。
父は我が強さを誇り、信じたうえで私にこれを残した。
――もう、父の痕は必要ない
私には、この爪と牙がある――
天生牙を置き去り発った。
――のち、それは小娘の手から我が手に渡るのだが。
腰の天生牙は以前のように静かだった。
りんの命を呼び戻し、自ずから手放したそれが再びりんの手からこの手に戻ったことが皮肉でもあるように思えた。
それほどの安堵が、この爆砕牙として現れた。
我が血となり肉となって、父の元から戻った我が腕と共に。
――親父殿の形見ではない、お前の刀だ――
父の背ばかりを追い続けたがために、自らの武器を手にすることが叶わなかった。
愚かだと思っていた。
人間の女などと関わり、半妖の子を成し、そんなもののために命を落とした父を。
死してなお父からの愛情を一身に受けている犬夜叉を。
そしてそれを憎く思う己が愚かだと。
それでも、爆砕牙を手にした今でも、父の後姿は脳裏に焼き付いて離れない。
目を閉じれば充満するかのように溢れだす、父の記憶―――
「…るさま、殺生丸さま!」
玲玲とした声に顔をあげた。
「ごめんなさい、眠ってた?」
りんが不安げに首をすくめた。
「…眠ってなどおらぬ」
それを聞いて、りんは少し微笑むと左に腰を下ろした。
「…何の用だ」
「ごめんなさい、何にもないの」
ここにいたいだけ、と笑った。
りんは手元に伸びていた殺生丸の純白の着物の袖を手に取り撫でた。
すでに我が物に触れられることに何の抵抗もない。
「殺生丸さまのお着物、綺麗だね」
「…」
「殺生丸さまが選んだの?」
「…父が選んだ」
りんは殺生丸の顔を覗き込むように屈んだ。
りんの匂いがふわりと舞った。
「殺生丸さまは殺生丸さまのおっとうがだいすきなんだね」
りんは再びさらりと着物を撫でた。
「殺生丸さまのおっとうも殺生丸さまのこと、だいすきだったんだね」
りんの言葉が、身体の中に落ちてくる。
淡々と蓄積するそれは、殺生丸に嘆息をもたらした。
そうだ。
私は、父は―――
左手を伸ばし、柔らかい髪を手のひらに滑らした。
黒髪は艶を放って指の間を通ってゆく。
りんは心地よさげに目を閉じた。
遺された力はなくとも、私には、父の抱擁の記憶があった。
≪抱擁の時:終≫
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