今あるものを
「殺生丸って、すきなひと、いた?」
己の膝についたひじを、思わずずり落としそうになった。
何を言い出す、この娘は。
「かごめさまがね、男の人は、一度好きになった人を絶対に忘れられないんだって。
だから殺生丸さまもかなって」
また人里で妙なことを吹き込まれたらしい。
「人間の下らぬ論を持ち出すな」
煩わしくて一蹴するが、まだ納得しないらしい。
「でも殺生丸さま。
弥勒さまがね、男の人は、最期の最期の瞬間に、一番大切な人を思い出すんだって。
そのとき思い出した人が笑っていたなら、男の人は幸せに死ねるんだ、って」
殺生丸はりんの形のよい瞳を覗いた。
吸い込まれてしまいそうな漆黒の瞳は、殺生丸の言葉を待って蘭と光っている。
形のよい唇が、次の言葉を紡ごうと新たな形を作っている。
「りんもね、あ、りんは女の子だけど。
りんもね、最期は殺生丸さまを思い出したいなあ。
殺生丸さまが目を閉じていても見えるくらい、覚えていたい・・・」
後ろのほうは吐息と入り混じるように吐き出した。
幼い少女はこのとき何をどこまで考えていたのだろう。
今となっては、殺生丸も、りん自身もよくわからない。
少女から娘へと開花したそれは、今はただ銀と金の月を穴が開くといってもよいほどみつめていた。
一点だけ灯った灯りの中、静まり返った閨に敷かれた布の上に横たわったまま、上から降り注ぐ銀の髪を指でもてあそび、それでもなお自分を覗き込む月を必死でみつめる。
「何を見る」
りんは口角を上げた。
その笑みがあまりに艶やかで、大妖はその香りに眩暈に似た感覚を味わう。
「殺生丸さまを目に焼き付けておくの」
「・・・馬鹿なことを」
そんなことをせずとも。
銀の妖怪は少女の胸に己の髪を横たえながら、その首筋に唇を近づけた。
少女はくすぐったそうに身をよじる。
この身体に私を覚えさせればよいだけのこと。
己が口付けた場所は赤く変色し、りんの首筋に小さく花を咲かせた。
自分が満足げな顔をしていることに気づき、慌てて少し顔をしかめた。
りんは頬を緩める。
「殺生丸さま、百面相」
「・・・お前に言われたくはない」
殺生丸の言葉にりんは頬を膨らます。
しかしどこか嬉しげに。
厭んだ者は数知れず、蔑んだ者も後を絶たず。
ただ今あるこの花だけを、真になくしたくないと願う。
やがて散りゆくとしりながら、それを手のひらで転がし続ける。
我が絶対零度の体温で枯れさすとしりつつも、それを手放すことは出来ない。
この世の果てに、何を思う。
お前は私を思うと言う。
おそらく私を、そして私の、お前の行く末を思うのだろう。
一寸先など興味もない。
今あるものだけを切に願う。
ただ壊れゆく思いの先が恐ろしいのだと自覚しながら。
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