守り方
ほお、と珍しく暖かな息が邪見から漏れた。
今日もまた主においていかれた。
理由はひとつ。
この小娘がいるからである。
小唄を歌ったり花冠を作ったりと、忙しくどこかを動かしてばかりいる娘は、大人しく老僕と共に主の帰りを待ちわびていた。
いつもであれば、りんはすぐにちょろちょろと動き回り、邪見は季節を問わずいやな汗をかいて走り回らねばならない。
しかし今日のりんは格別静かで、故にこのような安堵の息が漏れたのである。
「邪見さま、ため息つくと幸せが逃げるんだよ」
「今のはため息ではないわ」
「でも今日も殺生丸さまにおいていかれちゃったね」
「うるさいっ!」
「ほら、邪見さまがため息つくから雲が出てきたよ」
「なんでもわしのせいにするでないっ。
・・・しかし一雨きそうじゃ。
どこか雨をしのげる場所を探さねば・・・」
邪見は小さな体を目いっぱい伸ばして辺りを見回した。
「りん、ちょっと見てくるからここにおれよ」
「はあい」
りんは再び手元の花を摘み始め、邪見はりんを雨に当たらせないためにも早く、と手ごろな洞窟を探しにその場を離れた。
自らに無言で課せられた仕事に文句を言う邪見は、とうにいなくなった。
主がこの人間を慈愛するのも、あたかも初めから決まっていたかのように受け入れている。
不思議なものだ、と我ながら思うが、案外自分も単純じゃった、と割り切ることにした。
少し丘を下った先に、ちょうどよさげな洞穴を見つけた。
雲はすでに空一面を覆い、昼前の空気を重くしている。
急がねば、と先ほどの花畑へ戻った。
「おおいりーん!向こうに・・・って、あれ?」
りんがいたはずの場所には、その影さえない。
「りん?りーん!」
邪見の声が曇天に吸い込まれていく。
嫌な予感がした。
「りん!?返事をせんかっ!りーん!!」
冷や汗をたらし丘中を駆け回りりんを探すが、その姿はどこにもない。
りんが座っていた傍らに、作りかけの花冠が静かに落ちている。
ぽつり、と水滴が邪見の額をぬらすと、たちまち大粒の雨が落ちてきた。
邪見は雨音よりも大きく、己の血の気が引く音を聞いた。
まままままずいっ・・・!!
りんが一人でどこかへ行くはずもない。
むしろ行く当てもない。
攫われたにきまっとる・・・!
あぁ、じゃからあの娘はどこか抜けておると前々から言っておったんじゃ・・・!
どうせ一人でぽーっとしていて攫われたに違いない。
お前は大妖怪殺生丸さまの妖気と匂いがついておるから気を張っておれ、とあれほど言っておいたのに・・・!
能天気な顔をしおって・・・!!
りんを一人残した自分のことを棚に上げて、邪見は悪態をついた。
今は阿吽もいない。
りんを探しに行くことも、逃げることさえできない。
邪見は自分の不運を呪い、己の最期を感じた。
・・・わしの命、ここまでか・・・
ぐじゅぐじゅと涙と雨が入り混じり、音を立てた。
そのときふっと、暗い周りがさらに暗い影を落とした。
それに気がつく暇もなく、邪見はどっしりと降り立った阿吽の太い足の下敷きになっていた。
「ぐっ・・・!ぐぇっ・・・!せ、せっしょ・・・」
すでに現状をあらかた把握したらしい主は、下で呻く邪見を気にもかけず、阿吽からそのまま飛び立った。
初めてのことではない。
おおかた、大妖の妖気に惹かれた下賤な妖怪がりんを餌にこの殺生丸を釣ろうというのだろう。
わざとらしく残されたりんの匂いを辿りながら、そうと分かっていながらも罠にかかる己を笑った。
・・・だがなぜ。
りんの匂いはあっても、仕掛けた妖怪の匂いがない。
それをいぶかしく思いつつも、行ってしまえばよいこと、と先を急いだ。
てんてんと残されたりんの匂いを拾いながら深く森を抜けていくとき、ある匂いが痛むように殺生丸の鼻を刺激した。
否応なく殺生丸のしなやかな眉は上がる。
・・・りんの血・・・
殺生丸はさらに速く風を切って飛んだ。
陰鬱とした空気が重くのしかかり、濃い霧がたなびく銀糸を湿らした。
りんが攫われたことは、多々ある。
監督不行き届きだと、犬夜叉の連れにあつかましくもたしなめられたことさえある。
この殺生丸が目的ならば、その以前にりんを傷つける意味はない。
あるとしたら、殺生丸の焦りを誘うこと、だろう。
りんを攫った何者かの頭の弱さを失笑した。
突如、ぽっかりと空間に殺生丸を誘う歪みが生じた。
迷う理由もない。
殺生丸は進んだ。
青と黒が混沌としたような視界が広がっている。
りんの匂いが強くなった。
低く地を揺するような笑いが響いた。
「・・・来たか、殺生丸・・・娘を取り返しに・・・」
いかにも、といったふうな低い声が馬鹿らしく思えた。
「さしずめこの殺生丸を取り込もうと言うのだろう。できるならば好きにすればよい」
挑発するような妖の声に、さらにそれを嘲笑するかのような声が広がった。
「ふん・・・きさまなんぞに興味はない・・・
わしは・・・その刀・・・天生牙が欲しい・・・」
姿は見えないのに、腰の天生牙を舐めるように見つめる視線を感じた。
「きさまに扱えるような代物ではあるまい」
「それはわしが決めることだ・・・さぁ、それをよこせ・・・」
素直に渡すはずなどない。
それを分かっているのだろう、混沌とした世界の向こうに、小さな光が見えた。
「・・・見えるか、殺生丸・・・お前が連れ戻しに来た、人間の小娘だ・・・」
宙に横たわるりんのかたわらに、幾度も目にした子鬼がむらがっていた。
思わず目を見張る。
息を細かく吸うような笑い声が響いた。
「そうだ・・・あれはあの世の使いだ・・・ここはあの世とこの世の境界・・・
人間である小娘は死んだも同然となる・・・
・・・意味が、わかるか・・・」
「・・・天生牙と引き換えに、りんを、と言うのか」
笑い声と共に、地も揺れるようだった。
「・・・そうだ・・・物分りがよいな・・・
きさまにこの娘を生き返らせることはできまい・・・
だがわしならできる・・・
さぁ、どうする。
大事な刀か、人間の小娘か・・・」
再びりんに目をやった。
りんに向けて天生牙を抜いたあの時が波のように迫ってきた。
殺生丸は刀を抜いた。
「・・・よろしい・・・刀を捨てろ・・・」
これほどまで言いなりで、見知らぬものに屈するなど。
権威も、誇りも、滑り落ちた天生牙とともに地へと投げ出された。
乾いた音が響いた。
「欲しければくれてやる」
一瞬の静謐が広がり、先ほどとはうって変わった高い、それも見知った声が鳴った。
「殺生丸、ずいぶんと優しくなったものだな」
暗い世界が一転した。
気付けばそこはいつかの城。
母の城だった。
すべてに気付くと共に、怒りよりも深いため息がこぼれた。
「・・・なんのつもりだ」
りんはというと、見慣れた赤の台座に寝そべっている。
ゆっくりと上下する胸は、りんが生きている証。
「余興だ」
端麗な顔は一寸たりとも表情を崩さず言い放った。
反して殺生丸の顔は一気に嫌悪を露にした。
「いや、はじめはただそなたらの様子を見に暇つぶしに来たのだがな。
おそらくこの娘の教育でもしているのだろうと思ってきてみれば、娘はひとりではないか。
そなたも、緑の小妖怪さえいない。
ゆえに、攫ってみた」
淡々と述べられる真実に呆然とする。
――私はこれの遊びに振り回されていただけだというのか
「・・・ふざけたことを」
「・・・殺生丸、そなた、この娘を守るのではなかったのか?
ひとりにして、どこぞの妖怪に食われてしまってもよいような存在であったのか?」
「・・・」
「そなたは己を買いかぶりすぎている。
人の弱さを知っているようで、何も知らない。
・・・娘は攫ったのが私だと知っても、お前を疑わなかった。
必ず来ると待っていた」
りんがそう言う姿は目に浮かぶようだと思った。
妖の母が不安ではないのかと尋ねても、元気にうなずくばかり。
「だって殺生丸さまは来てくれるもん」
「この娘に、お前以上はいない。
・・・ぞんざいにするでない」
地に落ちた刀を腰に収めた。
「わかっている」
眠るりんを抱き上げ、担ぐようにして城を発った。
しばらく飛んでもいまだ眠っているりんの白い首筋が目に入った。
赤い傷が入っている。
ふさがってはいるが、かすかな血の匂いがした。
母がしたのだろう。
そのまま首を傾けて、傷口に舌をあてがった。
濡れた首筋は光り、その細さを強調した。
守るとは何なのか。
信じるとは何なのか。
微かな花の香がするこの幼子が、教えてくれる気がした。
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