宵の歌
殺生丸一行は、五月雨の降る夕方、今宵休む場所に向かって歩いていた。
歩くと言っても、りんは阿吽の上にぐったりとうつ伏せに伏せている。
「殺生丸さま…りんのやつ、どんどん熱くなってますが…」
邪見はちらちらと殺生丸を見、りんを見、また返事のない主をのぞき見ては、ため息をついた。
奈落が消滅した今、今までのような特別な旅の目的はなくなった。
邪見は、それでもどこかへ歩き続ける主の背中についていくばかり。
りんはもとよりどこへ行くかなど気にしたことはないのだろう。
いつでも楽しそうについてきた。
ただ、りんがもし人里で普通に暮らしていたなら、十四という年であればそろそろ浮いた話も出てくる年頃。
同い年の女子ならば、嫁に貰われたものもあるだろう。
しかし、りんに「普通」はすでに通用しない。
殺生丸という大妖と、邪見という従者、そして阿吽という妖獣と共に旅をすることがりんのすべてだった。
それは旅を始めて7年程経った今でも変わらない。
話は戻り現在、朝方から降り続く五月雨の中歩いていた夕刻、殺生丸に聞こえないようりんは邪見に耳打ちした。
「ねぇ、邪見さま。
りんお水が飲みたいから、川を探しにいってもいい?
すぐ戻るから」
「んん~?
しかしそのうち今宵泊まるところが…って、りん!
なんて真っ赤な顔しておるんじゃ!」
邪見は、今じゃすっかり自分より大きくなったりんを見上げて言った。
「しぃ~~っ!邪見さま静かにしてっ。殺生丸に聞こえちゃうっ。
りんは大丈夫。お水飲んだら治るから…」
そういいながら、りんの足元は覚束ない。
一方殺生丸は、りんと邪見の会話を背中で終始聞いていた。
何里も先の音さえ聞こえるというのに、りんが少し声を抑えたところで無駄だとまだわからないのかと、半ば呆れながらも、殺生丸はこれからどうしたものかと考えていた。
りんが後をついてき始めたころは、まったくこの少女の様子を気にすることなどなかった。
そのうちいなくなるだろうと思っていたから。
…なぜ天性牙を抜いたのかは未だにわからないが。
だが今は違う。
どんな些細なことも、りんに関われば一大事である。
それを自覚し始めた頃はとうに過ぎてしまった。
今はただ、共に過ごす時を経るばかり。
「殺生丸さまに聞こえちゃうって…殺生丸さまはもうお気づきになっておるに決まっとるじゃろう!
ほら、さっさと阿吽に乗れ!」
りんに何かあったとき、御咎めを受けるのはいつもわしなのじゃから…!
りんはしぶしぶと阿吽に乗ると、力尽きたかのようにすぐに眠った。
そこで今に至るのである。
「…今宵はここに留まる」
そう言って足を止めたのは、小さな荒れた寺社。
人はなさそうである。
りんを阿吽から抱き上げて境内に上り、中の広間にりんを下ろした。
「火を炊け」
「はいぃっ」
りんに風邪をひかせたことの負い目を感じたのか、邪見は薪を探しに、まだしとしとと雨が降り続く外へ飛び出した。
このような日に乾いた薪などあるのかどうかは別にして。
まだ、熱いな…
広い手の甲で、りんの頬を掠めるように触れた。
すると、怠そうに目を閉じていたりんが細く目を開いた。
「…殺生丸さま…ごめんなさい…」
喉もやられたのか、かすれた声がひゅるひゅると音を立てた。
「何を謝る」
「またりんのせいで…」
「何故すぐに言わなかった」
決まり悪そうにりんは
「…ごめんなさい」
と謝るばかりだった。
邪見が薪を持ってきて囲炉裏に火をたき、りんを温めようとちょこまか歩き回っていた。
殺生丸は自らの白毛にりんを抱き込み温める。
それはすでに日常風景の一つとなっていた。
ただ、まだ奈落を追って旅をしていた頃と違うことといえば、抱き上げたときに殺生丸の腕からすらりと垂れる、伸びた細い足が見えることである。
そのほかにも、ふと見せる優美な横顔や、年頃の娘にしては痩せすぎてはいるが、転びかけたりんを抱き留めた際に感じる女らしい肩の丸みは、否応なしに殺生丸にりんが少女から娘へと変わりゆくことを伝えていた。
りんはと言うと、全く変わりなく殺生丸に纏わり付いては邪見にたしなめられるというその性格は幼い頃から何一つとして変わっていない。
あたりまえに抱くはずの感情も、気付くのはあまりに遅かった。
「殺生丸さま…」
「…なんだ」
「…あの…りんの着物…雨で濡れてるから、殺生丸さまのお着物まで汚れちゃう…」
「気にするな」
平然と言い放つ殺生丸に比べ、りんはそれでも落ち着かない。
「でも…」
「それなら脱げばよかろう」
そう言って、殺生丸は顔を動かさずに視線だけでりんを見た。
とたんにりんの頬は朱く染まる。
「えっ…でも…」
────いつからであろう。
このような顔を見せるようになったのは。
「着物が汚れるのが気に障ると言ったのはお前だろう。
それならば脱げばよい」
「えっ・・・気に障るってわけじゃないんだけど…
でも…」
うつむいて白毛を指先でもてあそんでいる。
すると、ぱっと殺生丸の腕から抜け出した。
「あのっ…りん、なんだかもう大丈夫みたい!
うん!だから…今日は一人で寝るね!
ありがとう殺生丸さま!邪見さま!おやすみなさい!」
そう言うと、ぱたぱたと囲炉裏のそばへ行き、ころんとこちらに背を向けて横になった。
…気に食わんな
殺生丸は音もなく立ち上がった。
「はれ?
殺生丸さま、どうしました?」
邪見を無視して、りんのもとへ歩を進めた。
殺生丸のかすかな足音を感じたのか、りんの背中がこわばったのがわかった。
りんのすぐ手前で立ち止まった。
「邪見」
ぴょこんっと邪見は立ち上がった。
「はいっ」
「酒を取ってこい」
「は。
酒…ですか」
邪見はきょとんとしている。
「りんを暖める」
邪見は目をぱちくりしてから、
「は、左様でございますか!
では急いでいってまいります!」
と言い残し、酒を手に入れる当てもないのに邪見は寺社を飛び出した。
邪見がいなくなり、寺社は再び静かになった。
どどどどどうしよう…
邪見さまいなくなっちゃった…
なんだか殺生丸さま近くにいるし~~~!
殺生丸のきぬ擦れの音ばかりが聞こえる。
「――りん」
ぴくっとりんの肩がはねた。
「りん」
再び名が呼ばれる。
黙っているわけにもいかず、そのままの恰好で小さく返事をした。
「…はい…」
自分でも気が違ったのかとも思う。
おかしなことを聞いた。
「…私が怖いか」
それを聞いて、りんはがばっと跳び起きて殺生丸に向き直った。
「違うっ!
違うよ殺生丸さま!」
わかっている。
そんなことは今更聞くまでもない。
「殺生丸さまは怖くないっ!」
それならなぜ私の元から離れた。
「怖いんじゃないの…」
他に何があるというのだ。
黙ってしまったりんを、殺生丸は静かに見つめて先を促した。
しかしそれっきりりんは俯き、黙ってしまった。
立ち尽くしていてもしょうがないので、殺生丸は近くの壁にもたれ、腰を下ろした。
「…殺生丸さま。
やっぱり一緒に寝てもいい?」
りんは俯いたまま呟いた。
「…好きにしろ」
殺生丸がそういうと、りんはおもむろに自らの帯を解いた。
するりと袷を肩から落とし、白い小袖姿になった。
そのまま膝立ちになり、殺生丸の元へ歩み寄り、りんは殺生丸の胸元にすっぽりと収まった。
先刻胸に抱いていた時より、二人を隔てる布はさらに薄くなった。
余計に互いの体温が感じられる。
――――殺生丸さまの手、冷たいな―――
――――これはなぜこうも温かいのだろう。
というか、熱い。
あぁそうか、熱があるのだったな――
「殺生丸さま…
…りん苦しいの…」
殺生丸の頭に疑問符が浮かぶ。
「何がだ」
熱のせいか。
「殺生丸さまといると、なんだかこの辺りがきゅうってなって、すごく苦しいの…」
りんはそういいながら自分の胸を細い指でとんと小突いた。
「…」
殺生丸が黙っていると、りんは続けた。
「あっ、もちろんりんはいつも殺生丸さまのお傍にいたいよ。
でもなんだか最近、すごく苦しくて…
殺生丸といると、りんがりんじゃなくなりそうで…それが怖いのかも」
りんの頭頂部を見つめながら、殺生丸は今更ながら、人との時の違いを感じた。
りんに芽生えたこの感情、捨てるも育むも己次第―――
そしてその感情が枯れずとも、いずれはりんの命が枯れゆく。己の何倍もの早さで、りんの時は進むのだから―――
それならば、その最期の時まで眺めるもまた一興。
「…りん」
静かな御堂に低い声が響いた。
りんは、
りん一人で話しすぎちゃったかな。
うるさかったのかな。
殺生丸さまにとったら、こんなことどうでもいいよね…。
などと返事も忘れて悩んでいた。
「私と共に生きるか」
―――共に、生きる…?
りんはゆっくりと体を反転させ、殺生丸と向かい合った。
顔を上げると、金の月がふたつ、りんを見ていた。
「…それって…」
「…ここより西に、私の屋敷がある。
かつて父が西国を治めていた際の館だ。
父亡き今、館の主は私」
りんは呆然とその月を見つめていた。
「りんも、行っていいの…?」
「それを私が問うているのだ」
「…ずっと、いていいの?」
「あぁ」
「…ずっと、殺生丸さまといられるの?」
「…お前が望むなら」
殺生丸は少し俯き、りんのはねた毛先に手を伸ばした。
この七年間で、伸びた髪――
触れるたびに、なんともいえぬ芳香が殺生丸の鼻を掠める─――
「…りん、行きたい。
殺生丸さまと、ずっと一緒にいる。
…一緒に、生きる」
…ふん…つくづく愚かだな。
殺生丸はりんの髪を持ち上げ、その髪束に浅く顔を埋めていった。
「どういう意味か、わかっているのか」
再びりんはきょとんとする。
「私と共に生きるとは、人の世を捨てるということ。
…お前は人にも、妖にもなれぬ。
どことも交われぬということは、お前にとって耐え難い苦痛となる…
それをわかっているのか」
そう言い、りんの髪から顔をあげた。
互いの息がかかるほど近くで、見たこともないほど暖かく、それでいてとても優美で、艶やかな顔でりんは微笑んでいた。
「りんは、殺生丸さまがいればいいの」
大人びた顔つき
伸びた髪と背丈
高く柔らかい声
それがこんなにも心地よいとは。
右手の細く硬い指で、りんの頬を包んだ。
そのまま瞬きよりも早く、掠めるようにりんの唇に殺生丸のそれが触れた。
ぱちくりと目を開くりん。
まだこれがどういうことかわかってもいないのだろう。
それでいいのだ。
いずれ、わかる時が来る。
いや、嫌でもわからせる。
ただでさえ共に過ごす時は短い。
それならば、りんの身体にこの殺生丸を刻み込む。
一寸、そのままりんを見つめてからふと手を下ろし、殺生丸は暗闇に閉ざされた外界に目を向けた。
りんもつられてそちらを見る。
「…何か…きこえる…」
かすかに聞こえる旋律。
鳥のさえずりでもなく、人の声でもない。
「宵の歌だ」
「?
なに?」
「夜が深まる宵の時、微力な妖怪が集まり鳴くのだ」
そしてこの時、命あるつがいは契りを結ぶ―――
永久(とこしえ)の誓いをたてるときに奏でられる、宵の歌。
今宵は一匹の妖と一人の娘も、宵の歌で結ばれた─―――
――――――
「せっ…しょうまるさま…
邪見めが戻りました~…
酒を手に入れましたぞ~…」
明け方近く、ボロボロになった邪見が体より一回り小さいくらいのひょうたんを担いで帰ってきた。
「商人の妖怪から、酒を買って参りました~…
まったく、あやつはひとところに留まらんので…
ってあれ?りんはどこに…?」
邪見の目に写るのは、壁に背中を預けて前を見据える殺生丸のみ。
しかしその傍らには、小山となった白毛がこんもり。
ははぁ、なるほど。
邪見が近寄ると、それはもぞもぞと動いてぽっこりとりんの顔が覗いた。
熱を帯びていた頬は血色の良い赤みをさしている。
「熱は下がったようですな」
邪見はりんを見て、ほっと一息着いた。
邪見もいつの間にか、りんのことばかり気にしている自分に気が付いた。
りんに何かあったら自分の命の危機であるが故だが。
全く、こやつはわしの孫かっ
りんに言っているのか自分に言っているのかは定かではないが、初めはただの人の子としか思っていなかったのに、今ではすっかりりんに対する態度が変わってしまった自分自身を邪見は顧みた。
まぁ多少は主の変化によるものでもあるが。
今朝はどこへ向かって発つのであろうか。
というか、殺生丸さまははどこへ向かうおつもりなのだろう…
まるで邪見の心の内が聞こえていたかのように、殺生丸が言った。
「屋敷へ帰る」
ぽかんと口を開く邪見。
「…は。
屋敷というのは…その…どこのことでしょか?」
怠そうに殺生丸は言う。
「私の屋敷だ」
私の屋敷って…まさかあの西の?
殺生丸さまの御父上、闘牙王さまがいらっしゃったとかいう…
何故このお方はこんなにも冷静でいられるんじゃっ!
…あそこは妖怪の家人ばかりで、りんなど一歩でも屋敷に踏み込めば八つ裂きにされてしまう!
「いけませんっ殺生丸さまっ!
あそこはりんが入れるところでは……ぶっ!」
無言ですらりと立ち上がった殺生丸に、これまた無言で踏み潰された。
「…私の好きなようにする」
殺生丸は朝日射す外へと歩を進めた。
りんが殺生丸の足があった場所で、
「何故じゃ…」
と呟く邪見をひょいと助けおこした。
「殺生丸さまがいいって言ってるんだから、いいんだよ!
行こっ!!」
そう言って、りんは大きな背中に向かって駆け出した。
外に出て、殺生丸は朝の眩しさに目を細めていると、後ろから聞こえる自分を追う足音に気が付いた。
振り向くと、にかりと笑うりんがいた。
ふわりとすくうように抱き上げる。
ひゃっ
と声をあげて肩に掴まり、また笑う。
日の光の下で、りんの肌は健康的に焼け、幼さを残すもののやはり甘い。
殺生丸は胸いっぱいにその匂いを吸い込んだ。
こんなにも、心地良い居場所を知ってしまったから。
弱さがはかなさに、
はかなさが愛しさにすりかわってしまったから。
だからこそ、共にいようと思う。
殺生丸さまは、こつん、とりんのおでこに殺生丸さまのおでこをぶつけた。
長い睫毛がくすぐったい。
殺生丸さまは言った。
「行くか」
少し笑ってたような気がした。
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