風に舞え
白い小花が、まるでそういう模様の絨毯のように辺り一面咲き誇っていた。
ささやかな微風がそよぐだけで、その花弁は地を離れて空を舞う。
爽やかな甘さが広がっていた。
「・・・う・・・わぁ・・・」
瞳を輝かせ、りんはその匂いを胸いっぱい吸い込んだ。
「殺生丸さまっ。すごく綺麗なところだねっ。
・・・気持ちいい・・・」
目を閉じても辺りに充満する甘い芳香は、りんの鼻腔をくすぐった。
脳内を麻痺させるように浸透する香りに、思わず頬を緩めた。
終始無言の主は、花と戯れるりんを通り越して、どこか遠くに目をやっている。
少し視線を落として、可憐に咲く花を見て、気付いた。
・・・この花は―――
りんは上目遣い気味に殺生丸を覗き見た。
相変わらず何を考えているのかは分からなかったけれど。
今思い出している人はきっとりんと同じだろう。
───とても綺麗な人だった。
いつも悲しい目をしていた。
背を向ける一瞬前は、いつも殺生丸さまを見ていた。
いつだったか、殺生丸さまがりんと邪見さま、そしてその人を川から助けてくれたとき。
目を開けたその人は、胸に手を当てた。
まるで鼓動を確かめるかのように。
その人はすぐに飛んで行ってしまったけれど
「そんなんじゃねぇよ」って言った顔が
ただ会いたかったんだって言っていた。
殺生丸さまの刀が折れてしまってすぐ、殺生丸さまはどこかへ行ってしまった。
りんは不安げにつぶやく邪見さまとお留守番。
その帰りは思いのほか早くて、お帰りなさいって駆け寄った。
そのとき殺生丸さまの髪についていた、一片の白いもの。
それがこの花だ。
その日、殺生丸さまは何も言わなくて、邪見さまは刀が折れてしまったことで殺生丸さまのご機嫌が悪いんだとぼやいていた。
───だけどりんは・・・なんだかよく分からないんだけど・・・
そう、なんだか殺生丸さまは悲しそうで・・・
泣きそうな顔・・・ってわけじゃないんだけど・・・とにかくそんな顔をしていた。
それに気付いたらなんだかりんまで悲しくて、木に寄り添って目を瞑る殺生丸さまのところへ行った。
きっとりんがきたことには気付いてる。
それでも目を開くことはなかった。
ふと、殺生丸さまが軽く握る右手に白いものが見えた。
柔らかい風に少し揺れるそれは、純白の羽毛。
どこかで見た。
思い出そうと頭をひねっていたら、殺生丸さまは静かに目を開いてりんに右手を差し出した。
条件反射で受け取ったそれは、りんの手のひらを柔らかくかすめて転がった。
あぁそうだ。
これはあの人の───
「殺生丸さま、これ・・・」
「私には必要ない」
再び目を閉じた殺生丸さまは、それ以上何も言わなかったけれど、なんとなくりんにも分かることができた。
もういないんだ。あの人は。
二度と会うことはできない───
くつくつと胸がきしんだ。
殺生丸さまも今、この感覚に耐えているんだろう。
───何度か会いに来ていた。
空から見ていることもあった。
あの人の願いは、叶うのかな。
りんにはまだ分からないことばかりだけど
幸せであればいいと思う。
覚えある匂いが鼻を掠めた。
深く考えはしなかった。
ただ足がそちらに向いたまで。
一面の白。
むせ返るほど甘い花のにおい。
その中の、陰鬱とした瘴気の匂い―――
頭を垂れた体からは、波打つ瘴気が溢れていた。
一定の調べで溢れるそれと共に、心臓の脈内が聞こえた気がした。
「もういい」といった言葉を疑おうとは思わない。
向けられた笑顔の意味を解するつもりもない。
ただあるがままを受け取った。
「自由が欲しい」と言っていた。
空を舞う、幾数の白い羽。
初めて死が美しいと思った。
たとえどれほど穢れた瘴気に紛れようと
その一点の光を忘れはしない。
───りんは受け取った羽を、そっと手放した。
ひらりと地に落ちるように見せたそれは、身を翻して暮れかけた空へと舞い上がった。
徐々に高く昇る羽を、いつからか殺生丸も見上げていた。
───ここだったんだ。
殺生丸さまはここであの人とお別れを───
「行くぞ」
背後で殺生丸がきびすを返す気配がした。
慌てて後を追う。
無意識のうちに、軽く揺れている角ばった右手を握っていた。
細く堅いそれは小さく反応を示したが、りんを拒むことはなかった。
「・・・風に・・・なれたのかなぁ」
殺生丸は答える代わりに少し顔を上げて空を仰いだ。
風は甘い匂いを運んでいた。
───私は風だ。自由な風だ───
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